私とは何かは哲学永遠不変のテーマだが、日本人の二人の哲学者がこの命題を全く違った形で示している。中島義道氏と永井均氏は共に私がある時期出会った哲学者である。出会うとは僭越だが、出会いは師弟という形式的レヴェルを遥かに超え得る。何故他にも大勢哲学者はいるのに、この二人に私が啓発されたか?それをこのブログで究明しつつ来場者と共に私や私であること、私の感性について考えたい。このブログは二人の哲学者に共鳴する全ての人たちによる創造の場である。

Wednesday, February 3, 2010

第一章 道徳とは何か、どのように位置づけたらよいのか⑪

 前回取り上げた「生きてるだけでなぜ悪い?」において香山リカと中島が対談したのは本自体が出版されるよりも更に一年くらい前で日本では安倍首相が退陣することになった当日に対談の一回(どの箇所であるかまでは不明である)は行われている。その世相で語られた年金問題その他の官僚組織の腐敗や、霞ヶ関埋蔵金といったことが槍玉に挙げられていた時に一切そういうことに対して怒りを持たないし、自分より恵まれていない人に対してさえも一切気の毒という風には思わないと言うこの徹底した反社会性は、しかしよく考えてみると哲学者としての生理から一切そういう真理論外的現実の有象無象に対して、口を噤むという態度は自分にとって問題が手に余るものであればそれを把握しきれると言ってはいけない、ということからもウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の結語である「語ることが出来ないことに関しては沈黙せねばならない」という命題を思い起こすことが出来る。所詮どんなに社会とは統制して犯罪が起きないように計らっても、いやそうすればするほど不正は横行するに違いないという直観が中島にはあって、だからこそどんな犯罪が起きても狼狽することなく自分にとって直面した現実を切り抜けていくしかないといういい意味での諦念が中島からしばしば語られる。そのいい例として「差別感情」における次の一節が挙げられるだろう。(①129~131ページより、第二章 自分に対する肯定的感情 中 1誇り 中 マイナスを誇る、②158~160ページより、同章 中 人間関係の濃厚な社会を目指すべきなのか?) 


(前略)
 現代日本社会に眼を移すと、われわれは社会的なプラスの面に基づいて誇ることはほとんどできなくなっていることに気づく。有名大学出身であることを誇るとか、大会社の重役であることを誇るとか、旧華族の家柄であること誇る、・・・・・・という言い方は皆無ではないが、いずれも厳しい世間の検閲にかかると、高慢、尊大という非難を回避するのは難しい。
 面白いことに、社会的プラスの価値に基づいた誇りは相当注意しなければ、この国では容認されえない。しかし、この現象と呼応するかのように、現代日本では社会的なマイナスの価値を誇る言葉が津々浦々にまで響き渡っている。
「私は、義務教育しか終えていない、でもまじめで実直な職人としての父親を誇りに思います」とか「僕は、美人ではないけれど、女手一つで僕を育ててくれた母親を誇りに思う」という宣言は、なんと時代の波にうまく乗っていることであろうか。人の耳に心地よく響き、誰からも非難どころか幾重もの優しいまなざしに包まれて、なんと安泰であることだろうか。だから、人々はこういう文脈で誇りを語り続けるのである。
 向田邦子は、外では上役に平身低頭しながら家庭では威張りくさり、しかしその家族愛に伝わってくる父親を誇りに思っている。一見、駄目男に見えながらも、不器用な形で家族に愛情を注ぎ続ける父親をもっていることに誇りを覚えているのである。藤沢周平もまた、下級武士や町人など名もない実直な人々を描き続ける。彼らは、みずからの「美しさ」を誇りに思っている。
 私はどうもこういう「マイナスの誇り」が好きになれない。その背後に、現代の世に受け入れられることを正確に計算している功利的精神を見通してしまうからだ。その同じ人が、学歴や家柄などに基づく社会的にプラスの誇り、陽の当たる場所にいる人の誇りに対しては容赦なく冷たい視線を注ぐ。
 たとえマイナスの誇りでも、じつのところ強烈な優越感を伴っている。幾分不器用で、実直で、「美しい」人生を歩んでいる人は、たとえいかに社会的に成功しても、何を外形的に獲得しても、人間として劣っている、という確固たる価値観に基づく通奏低音がそこに響いているのだから。


 親を殺したり、「誰でもいいか」刺したりする犯罪が増えるとともに、ひきこもりやうつ病が増大するなどの社会現象に対する反省から、最近のジャーナリズムの風潮として、もっと人間的絆の固い社会の実現という提唱が多いが、これは危険な方向だと思う。先日のNHK特集では「ぎすぎすした社会」からの脱皮というテーマでパネリストかあらさまざまな提言がなされたが、そろって人間関係の濃厚な社会、声を掛け合う地域社会の復活を唱えていた。江戸時代から続くわが国独自の人間的絆を復活しよう、という声もあり、強烈な違和感を覚えた。
 それは、お互いに監視し続ける社会であり、他人が個人を放っておかずにずけずけと介入する社会である。社会のしきたりを個人におしつける社会であり、連帯感を強調する社会であり、帰属意識を高める社会である。
 人間関係の濃厚な社会を単純に望むことは危険だと思う。そこには「みんな一緒」に居心地の良さを覚える人々の幸福と引き換えに、濃厚な人間関係を望まない多くの人を圧殺することになる。むしろ(私の好みも多分に入っているが)、他人に自分の価値観を押しつけない社会、他人を縛らない社会、他人を強調しない社会、他人になるべく期待しない社会こそ、実現すべきではないだろうか?
 多様性そのものを維持することが大切なのであって、多少社会の効率が下がっても、不安定要素が高まっても、異質なものを同化するのではなく、異質なもの同士の「共生」を目指すべきであろう。孤独でいたい人に孤独の自由を与え、不幸に打ちひしがれていても他人の助けを欲しない人の自由を尊重すべきであろう。
 社会の安定と調和は、こうした人々を取り込んで一律な価値観を押しつけることによって実現されはならない。確かに、一般に集団から排除されるのは辛いことである。しかし、同じように辛いのは、無理やり集団に留まることを強制されることである。
 こうして、人間は何らかの共同体に属さなければ生きていけないことを知ったうえで、各人は自分の集団への帰属意識をなるべく抑えることを提案したい。その集団があなたにとって大切であればあるほど、あなたはその集団のために働いていくであろう。そして、知らないうちに、その集団を守るために集団内の個人を追及し、その集団を守るためにある人々を集団から排除し、・・・・・・こうして集団に身を捧げることを通してあなたは差別感情をせっせと育てているのだ。

①②から見ていくと、恐らく庶民感情と言うようにかつては多く語られたこの種の自分の肉親を誇らしげに語る気分というものが即座に中島の言うように監視社会へと直結し得るかと言えばそうではないだろう。しかし少なくともそのような可能性も常に視野に入れてそういう言説の一切を封じ込めてはならないということを主張しているという意味では二回前の永井による道徳規範に対する考え方とも全く共通したものを我々は読み取ることが可能である。
 永井の「なぜ悪いことをしても<よい>のか」中の既に引用した箇所、「つまり道徳だけが唯一の武器である者は、取り決められた道徳の内容を祭り上げ、崇拝せざるをえない。道徳の根底には、目をこらせば見えてしまうものを見てはいけないとして遮断する隠蔽工作があるから、過度に道徳に依存せざるをえない境遇にある人の人格は、遮断的なものになりがちである。その事実を指摘できる人は、社会にとっても不要とはいえない。道徳についての、それ自体は道徳的でない真理を知っている人_つまり道徳の系譜学者は_道徳的社会にとってときには必要な存在なのである。」がこの中島の論説の正当性を語っていると言える。
 ②の社会は端的に日本がかつて「向こう三軒両隣」とか「袖触れ合うも多少の縁」といった知識共同体の友愛的精神を表わす対人関係術、共同体秩序邁進術として美徳としてきたものである。そういう統制自体に極端なアレルギーを示す辺りに中島義道の世代的感覚も実は滲み出ている。要するに団塊の世代固有の個人主義感覚である。しかしそういった中島の世代感覚や個人的傾向性を離れて考えても理性論的にこの意見自体に私は賛成である。このテクストでもたびたび触れられているナチス自体がこのような連帯意識と帰属意識を濃厚に高めた結果起きたことだからである。
 しかし実は日本人は既にもっと異質のレヴェルへと意識は進化というか移行しているように私は思う。つまりその異質性へ変化を遂げたこと自体への恐怖がこの様な連帯感とか絆の濃厚な社会を読みかけるような特集をマスコミに作らせている(先日の「無縁社会」のような番組の意図にそれを読み取ることが出来る)のだ、と私は考えている。このことと本ブログで今後述べていくことは大いに関係のある内容のものなので、前に取り上げた禅僧同士の対談「<問い>の問答」から玄侑宗久と南直哉による対談から再び頻繁に抜粋して 第二章 永井哲学の社会契約的存在者とヘーゲルとハイデッガー において詳述する。第二章では永井の倫理学の根幹に位置する言語を通した社会契約論について粒さに見ていこうと思っているが、実際は中島の持つエッセイスト、文明批評家的側面の方に寧ろ多く永井との共通性を私は見出せるので、その観点から永井を軸にしながらも、中島の別の側面を浮かび上がらせるという目的でも書いていきたいと思っている。
 つまり「カントの時間論」とか「時間論」「カントの自我論」といった専門的著作物では見せない資質こそ、私が中島義道に固有の哲学であり、それは既に述べたがカントには全く相容れない資質である(カントは中島ほどの正義漢ではない)。そして第三章、第七章で綿密に精神分析的に二人の哲学者を取り扱うが、触りだけ今言うと、中島はその自らの正義漢的部分に対して極度のシャイネスを抱いている。そしてそれを隠蔽しようとするダンディズムこそが中島をより反社会的イメージへと自己意図としても仕立て上げている。しかしよく解析してみれば分かることであるが、永井均の方がより破壊的である。それは社会とか個人ということに対して徹底的に無視を決め込んでいるからである。本ブログでは中島によるカントその他の哲学的先人への負い目と尊崇の中に彼固有の過去論の軸を見る思いがする。
 しかし中島義道は近年とみにそこからの脱皮を図ろうとしていることもまた読み取れるのである。そのことは次回以降追々示していくこととしよう。

 論文の方に戻ろう。
 中島は向田邦子の父への追慕に見られる固有の誇りにある歪さを読み取っている。そういう観点から言えば本願ぼこり的部分に対する痛烈な皮肉を書いているとも言えるが、しかし同時に中島は別の箇所ではこうも言っている。(172~174ページより、第二章 自分に対する肯定的感情 中 4 向上心 あらゆる賞賛に冷淡であること)

 私の個人的感受性であるが(中略)私は地上のありとあらゆる「賞」を嫌悪するようになった。誰がいかなる偉業を成し遂げようともそれほど感心しないのである。いや、それを讃える人々、それに応える英雄たちの喜々とした顔に、善くないもの、真実でないもの、美しくないものを見てしまう。それが、いかにも人類のためになろうと、いかに謙虚で地味な研究であろうと、人は自分の仕事に関して「誉められること」を承認してはならないと思うのだ。
 このいささか過敏な心情には差別感情が絡みついている。すなわち、いかなる心血を注いだ研究でも、いかに多くの人を楽しませ希望を与える創作でも、障害者として、犯罪者(の家族)として、被差別部落出身者として、差別を受けながら、日々苦しみあえいで生きている人々の偉大さに比べれば物の数ではないからである。
 数年前にニュースで知ったのだが、近所のスーパーに幼い子供を二人連れて車で買い物に来た主婦が、駐車場で子供をいったん降ろしバックして停めたところ、二人の子供はその車の下敷きになって死んでいた。その母親が自殺せず後悔と自責に塗れて生き続ける尊厳さに比べれば、いかなる受賞者のなした偉業もほとんど無であるように思う。
 かなり昔の事件であるが私もわずかにかかわっているので、ここに記しておく。ある出版社に勤務する中年の、男(S)が息子の家庭内暴力に疲れ果てて、息子の睡眠中その頭を金属バットで滅多打ちにして殺した。妻と娘は息子(弟)の暴力から逃れるために別居していた。夫が息子を殺した衝撃から、Sの妻は首吊り自殺を図った。Sにとって、あるいは残された娘にとって、人生とはなんと過酷なものであろう。「なぜ自分たちにこの人生が与えられたのだろうか?」(『聖書』「ヨブ記」の)ヨブのように、天に向かって叫びたいところだろう。
 Sは東大の倫理学科を出ていて、彼の情状を鑑みた減刑運動が起こり、同じ倫理学科で彼と机を並べていたカント学者仲間から私にまで署名の依頼があった(定かに記憶していないが、署名したように思う)。
 こういう人は、まさに地獄のような人生を行き抜いたとしても、誰からも誉められず、むしろ中傷され、非難され、耐えに耐えしのんで、そのまま死ぬのである。わが子を(過失によって)轢き殺した母親や、わが子を(意図的に)打ち殺した父親は、普通の意味での被差別者ではないが、なぜ自分がこうした運命のもとに配置されねばならなかったのか、障害者や被差別部落出身者が抱くのと同じ疑問を感じるに違いない。
 私は、誰がいかに偉大なことを成し遂げても、こうした人々の偉大さの足許にも及ばないと心の底から感じる。そしてカール・バルトの言葉がますます心に染み渡る。

 人間と人間仲間のあいだにあって、すばらしく思わせるものはすべて仮面である。(『ローマ書講解』小川圭治・岩波哲男訳、河出書房)
 
 これらの言説の全てを、ではそれは哲学者としての理念からそう言っているのか、それとも人間性から迸り出たものなのかということを問うことには恐らく意味がない。中島の持つ人間性や性格や資質や行動が持つ傾向性がそのまま彼を哲学者という職業へと結び付けているその現実だけを見つめるべきであり、その哲学理念と性格論的な傾向性を分けることなど出来はしない。私が前回「中島義道という著作家には明らかにこのような自己矛盾を自己矛盾のまま提示するというスタンスもある。それはある意味では彼の資質に因るものであるし、ある意味では哲学者としての理念に因るものであり、その二つを切り離すことも出来ない」と語ったのはそういう意味からである。
 確かに中島には例えば①に描かれた日本に固有の庶民的誇りに対してインテリ、エリートクラスの人間の立場に立って逆差別的な社会の強制的友愛主義的モラルへ批判しているが、 あらゆる賞賛に冷淡であること では全く逆に褒章を得た成功者へと批判の矛先を向けている。しかしよく注意して見てみるとこの二つは矛盾していないことにも気づく。何故なら中島が忌み嫌っているものとは端的に庶民感情(それは経済力の有無ではない、向こう三軒両隣的、袖触れ合うも多少の縁的対人術と人間関係観である)なのであり、褒章を獲得する全ての市民は端的に中島の論理に因れば大衆とか民衆とか庶民にとってのヒーローなのである。
 東大で官僚的出世をしていった自らと同級生たちから見ればドロップアウトしたと自覚しているは言え、官僚として成功している自らの同級生たちに対する羨望と純然たるエリート街道からら外れていく自分でしか見られない固有の挫折と屈折した心理(「たまたま地上にぼくは生まれた」や「生きてるだけでなぜ悪い」等においてエリートになりきれず、そうかと言って完全に学歴社会的敗北者でもないという固有の自分の社会における立場について告白している)が哲学探究という道に活路を見出した時、社会正義を哲学者としての固有の世界観から書いていこうという決意を彼に与えている。
 しかし本質的に自分が挫折していると感じている多くの人々にとってやはり何かを受賞するようなエリートとかインテリといった人たちは憧れを抱くことを許される存在であり多くの人々自身はそういう存在があっていい、あるいは必要と感じているのではないだろうか?
 それは祭り意識にも通じるものである。オリンピックなどで金メダルを取る選手に対して、野球や相撲といったスポーツに熱狂する感情全てまで奪う権利は誰にもない。
 また中島のように我が子を車で轢き殺してしまった女性などに対して抱く「それでも尚生きていく人間の姿」へ尊崇の念を捧げるということ自体は恐らく誰しも抱く感情である。しかしそれを態々著作物に示し、モラル論的に展開するということ自体に対しては読者でも賛否両論分かれるだろう。
 つまり通常我々はそういった打ちひしがれて生きていく人の姿を直視すること(実際に興味本位で見るということではなく、そういう人が必死で生きて行く姿をしかと認識しておくこと)を大切なことであると知りながら、あまり見まいとする。しかしそれはある程度自分が不幸であると認識している人間にとっては当然許された態度である筈だ。つまり不幸であると自分で思っている人間は自分よりも不幸な人を見つけて優越感を得ることよりは、そういう人を敢えてみまいとして、逆に自分よりもずっと成功している人を偶像視してそれを自分の立たされている現実と切り離して、何か映画や芝居を見ている(ある部分では現実逃避することで苦悩を忘れる)ように憂さを晴らす気分を得るということはよくあることではないだろうか?
 勿論ここでも常に二つの両極的タイプは存在しよう。例えば件の我が子を轢き殺した母親のような立場の人たちが共にコミュニケーションを取ることで心を支え合うということもあり得るだろうし、逆にそういった過去を他人にはひた隠し一切そういう内心の感情を示さずに生きていくというということもあり得る。 
 そしてここでは後者の立場を取る人たちにとって自分と似たような境遇の人とコミュニケーションを取ることが億劫で辛いことだと思うことも十分考えられないだろうか?そういう人たちは極力件の母親のような生き方の人たちのことに対して関心さえ持たないように無意識の内に心がけていることだろう。
 哲学者中島もそこまであまり幸福ではない人に対して自身のモラルを強制出来るだろうか?それはかなり経済的にも学歴的にも努力してかしないでかに関わらず恵まれた立場の人間だけが心得ておくべきマナーと言っていいのではないか?
 そしてここでも中島は「敢えてそれを書く」「それでも私は書かねばならない」と決意したところに哲学者としての生理と使命感があるのであり、そのように「一体どこまで書くことが許されるのか、どこまで書けば人は不快感すら催すのだろうか」という問掛け自体が中島の執筆姿勢を支えているのである。
 このことは第三章 中島義道の哲学的動機と永井(中島義道の不幸道)、第四章 二人の哲学者にとっての著作者としての性格、第五章 中島義道の不幸道②・哲学動機と先人の哲学者たち(デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ウィトゲンシュタイン、サルトル)において随時詳細に論じていくから触り程度にしておくが、このような執筆姿勢を私は「読者共感試験型執筆姿勢」と呼ぼうと思う。
 これはかなりよく文学者たちが採用する手法である。しかしそれを寧ろ地味なタイプの学徒である哲学者が敢えて採用するところに中島の大いなる冒険があり、彼に固有の哲学者としての地位を与えている。

 つまり哲学者は百パーセント社会が規定する哲学者であらねばらないのではなく、厭そうであり得る筈がなく、またそうであり得ないことを隠すべきでもない、とも言える。サルトルが「存在と無」で冒頭、自己欺瞞という概念を提出しているのは職務や社会的ロールの全ては一切演技だけで成立しているのでもなく、逆にまた全て個人的性格だけで成立しているのでもない、つまりその二つに分離することの不可能な地点でのみ全ての社会行動が実現しているのであり、ある意志決定や決断、責任的行動は、その人間の理念、思想、習慣、社会的責任、良心、性格的判断といった全てが微妙に統合されてどれが一番優先してなされると言い切れるものではないということを語っているとも言える。勿論時には「私はあの時組織の意向を最優先しました」などと結果論的にそう語ることは出来る。それは対外的、対社会的な構えにおいてそう語っている(あるいは語らざるを得ない)のであり、そういった告白の信憑性を常に百パーセント信じていいものかは言わずもがなであろう。
 「差別感情」において中島は次のように自責的に語っている。(151~155ページより、第二章 自分に対する肯定的感情 中 家族至上主義)

 現代日本において露骨な愛を注いでも許される唯一の組織がある。それは家族である。自分は国家や会社に身を捧げ、国家こそ会社こそ自分の生きがいであると語ることに一抹の気後れがあるのに対して、家族に関してだけは、家族を心から愛しているとか、家族こそ生きがいであるとか、家族の幸せを心底願っている・・・・・という露骨な愛情表現が大手を振って歩いている。誰も眉をひそめず、問題にもしない。ただただ、ごく自然な同意と弛緩した(定型的な)賛意が振りまかれるだけである。
 庄司洋子は「不平等・不公平の源泉としての家族」という観点を鋭く打ち出している。

 現代家族の特性として一般にもっとも強調されているのは、家族成員のなかに生じる人格的な関係、あるいは情緒的な関係である。多くの家族意識調査のなかで、「愛情」「いこい」などと表現されているのがそれである。そこには、家族関係を、個人が食べて生きていくために不可欠な社会関係としてではなく、より文化的で人間らしい欲求を充足するためのものとみたがる現代人の願望が反映されている。・・・・・そこに、家族は「よきもの」という絶対化が生じうるのである。(「非婚をめぐる差別」『講座 差別の社会学2 日本社会の差別構造』所収、弘文堂)

 あらゆる愛の表明の中で、家族愛の表明だけが特権的に安全なのだ。いかなる咎めも受けず、いかなる批判も浴びない。これは、家族に恵まれない人、家族のいない人、いやそれよりもさらに、家族を愛せない人、家族を憎んでいる人、恨んでいる人、縁を切りたい人にとっては、きわめて残酷な事態ではないだろうか。
 実際のところ、必ずしも彼らが不幸であるわけではない。だが、現代日本を支配する家族絶対主義の強力な磁場の中で、彼らは世にも不幸な人々とみなされてしまう。障害者に対しては「不幸でしょう?」という言葉をぐいと呑み込む人でも、家族もいなくて天涯孤独な老人に向かっては躊躇することなく「お寂しいでしょう?」という言葉をかけて、何ともないのである。
 現代日本では、家族は絶対的に「よきもの」とみなされているがゆえに、家族と縁を切った人、家族に恵まれない人、家族関係がギクシャクしている人は「かわいそうな人」なのだ。家族至上主義を崇め奉っている多数派は、家族を愛することは「自然だ」とみなしているからこそ、それを欲しない者を頭から非難し排除する。彼らは、この幸福をすべての人に要求するという凄まじい暴力を_あくまでも穏やかな形で_じわじわと実行するのである。
 彼らは、「娘が嫁に行きましてね」としみじみと語る父親には、「娘を嫁にやりたくない気持ちはわかりますよ」と声をかける。さらに、「娘に孫が生れましてねえ」と報告すると、瞬時に「眼に入れても痛くないでしょう」と答える。そして、こういう会話を投げ合いつつ、自分たちは正統派であると確認し合い、その幸せを分かち合って、いささかも反省することがないのである。
 これは、「娘の結婚相手が被差別部落出身者でなくてほっとしました」とか「孫に手足があって、よかった」という会話と基本的には同じなのに、現代日本において家族愛は幾重にも保護されているからこそ、そのうちに安住している者は自己批判精神を完全に喪失しているのである。
 感受性の鈍い人のためにもう少し続けよう。「妻が亡くなりまして」と語ると、多くの人が真剣な顔つきで哀悼の意を表する。そう語る当人もそのことを幾分期待している。冷淡な反応を示す人を無礼だとさえ思ってしまう。このとき、わずか一瞬でもいいから、自分の傲慢さを自覚する必要があるように思う。
 なぜなら、これが法律的に保護されていない性的パートナーの場合は、様相ががらりと一変することを彼は知っているからである。普通、男は明るい席で「不倫相手が亡くなりまして」とも「不倫相手に産ませた息子が亡くなりまして」とも語らない。そう語ったとしても、みな顔を見合わせるだけで言葉がないからである。
 同じことは、子供の誕生の場面でも言える。正当な結婚をして子供を授かったときのみ、夫婦はおおっぴらにその喜びを公開し、周囲の人に祝福する。だが、望まない子供の誕生も多々ある。男から棄てられたあげくの自殺寸前の出産も、強姦されたあげくの子供の誕生もある。結婚して子供が生まれたとき、みなの祝福を期待し「大きな顔をして」報告するとき、あなたはすでに(潜在的)加害者なのである。
 こうして、家族愛の正統性は堅固に保護されているがゆえに、その絆を強調することが、とりもなおさず非正統的関係を排除する構造になっている。女性の場合に多いように思うが、子供をもたない者は子供をもつ女との会話を幾分いとわしく思う。なぜなら、女にとって、子供を産み育てたことがあるかないかは大きな差異をなし、自分は断じて子供をもちたくないとしても、「女は子供を産む方が自然だ」という社会の磁場が示す方向を変えることはできないからである。
 私自身、結婚して子供をもって、正統派に属することはきわめて居心地がいいとともに、人間を限りなく鈍感にすることを痛感した。「妻の誕生日でして」と語っても「これから息子をプールに連れて行くんです」と言っても、一挙に暖かいまなざしが注がれる。それ以上、何の複雑な説明も要らない。私はただ平凡な家庭人として優しく見守られるだけである。
 こうして、家族に「いこい」を求めえた人は、不断に甘やかされ、そのことによって頭脳が単純化し、麻痺し、知らないうちに多くの非婚の人や家族関係に苦しんでいる人を傷つけることになる。しかも、このことにわずかの罪責感ももたないほど鈍感である。

 戦後日本人にとって家族愛ということが持て囃されるのはアメリカからの影響もあるだろう。しかしそれ以前から日本では大家族という制度があったが、それは既に崩壊したということは明らかである。だがその代わりにアメリカ式の夫婦愛を軸として核家族が最後の砦として残されている(尤もアメリカでは夫婦ごとに所帯を持っていても尚大家族的愛情は美徳とされている)。だが全てアメリカ的でもない。日本ではアメリカと違って私の大嫌いな映画監督、小津安二郎による「東京物語」的父と娘像において未だに父親が娘を自分の手元に置いておきたいというエゴが美談として語られる。だが後半部分になるといささか食傷気味になる読者も多いだろうと私は思う。しかし敢えてそれを中島は書くことを選ぶわけだ。
 だがこの中島の見方も中島自身が仕事で使う以外では恐らくあまりヘビーユーザーではないだろうパソコンや携帯電話などに対する愛着が現代青年たちよりは欠如しているが故にこのような実体へと眼が向かうという側面も否めまい。つまり現代ではやはり旧態依然の家族制度的な現実を素直に受け入れる人と、そうではない人に分かれるかも知れない。だがやはり若い人同士でも結婚している人とそうではない人との間にある見えない壁は存在するのであろう。
 だがこの世の中にはここで中島が語っているようにある意味ではかなり自分自身が社会によって判を押されたような幸福観を提唱してそれに随順した人生を全うしている人自身が次第に「自分は社会的に幸福な立場にある」と考え、そうではない人を気の毒に、とそう思うようになることがあり、それを彼は傲慢であると捉える。
 しかし彼自身もまたある意味ではその顰に倣っているとも言える。何故ならそう語ることは自分自身では独身ではないからであり、結婚している人でしかも家庭が円満な人に較べれば自分はそれほど平和な家庭ではないという負い目を追いつつ、自分よりももっと恵まれない一度も正式に結婚出来ないままでいる人を下位に置き、安心しているという図式が中島自身の本論中の論旨にあるように読み取れることはどんな読者の目から見ても明らかだ。その意味では例えば未だに独身である私のような立場の者からこの本を読めば「余計なお世話だぜ、ほっといてくれ。俺たち独身者の気持ちも理解出来るわけない癖に」とそう言いたくはなる。それは僻みからではなくもっと率直に人それぞれでいいではないか、それ(このようにくだくだと詳しく書くこと)こそがお節介であると思うからである。しかしそれでも中島はそれを書くことを止めない。その事自体が重要なのだ。
 確かにある本を読んで自分の立場から見たらこんなことナンセンスだとそう思うことはある。だから私も全ての本を最後まで読破するわけでもない。
 しかし一方一読者として自分自身の状況とは無縁に客観的に読むということはどんな立場の人でも可能であろう。そういう意味ではこの箇所は然程神経を尖らせる人は少ないかも知れない。寧ろこの種の問いである種の拒否反応を持つ人がいるとしたら中島によって出された次に示す東大生と職人との間のテレビドキュメントのエピソードであろう。(138~139ページより、第二章 自分に対する肯定的感情 中 うちに籠められた優越感)

 ある日のNHK教育テレビの番組の番組は不快なものであった。将来に悩む互いに見知らぬ若者が二人で数日間にわたって意見交換をするというドキュメンタリー番組であるが、その日の主役は、自分の将来が見えない東大生A君と高校卒業後職人の道を歩み出したB君であった。A君がB君を訪ねていくところから場面は展開する。
 A君はしきりにB君に、「将来がしっかり決まっているきみがうらやましい」と言う。B君はA君に言葉を尽くして「自分はそんなに偉くはない、しかし満足している」と答える。後でB君の両親も出演して、B君を誇りに思っていると語る。そういう彼らに、自分は駄目だと言い続けるA君に向かって母親が何気なく「でも、東大に受かったんだから偉いよね」と口に出したとたん、A君は「いえ、そんなことありません」と抗議し、「B君のほうがよっぽど偉い」と強調する。こうして、最後まで、A君は偉くなくB君は偉いのであって、B君がA君を「慰める」のであった。
 画面からA君の「うちに籠められた優越感」が伝わってきて、きわめて厭な感じであった。B君は本当にいまの自分に満足しているらしいが、それでもA君は「東大に入ったんだから、いいじゃないか」と言いたげな、それでいてそれを言ってしまうと自分の信念が揺らいでしまいそうになるという居心地の悪さを感じた。
 こうした構図は世間でしょっちゅう見いだせる。社会的優者は、相手を配慮して相手を賞賛し自分を卑下する。社会的劣者は、そういう相手の(狡い)気持ちを察知して、しかも相手の「うちに籠められた優越感」に打ち負かされたくないので、相手を賞賛することを控え、自分を卑下することを控える。
 こうして、そこには不透明で濁りきった空気が漂う。
 先に軽蔑について分析したときに明かになったように、現代日本社会においては「表明されない軽蔑」が各人の心の内部でくすぶり続けている。いまの事例の場合、A君はB君を軽蔑しているのではないだろう。本心から尊敬しているのかもしれない。しかし。A君は東大生であるという事実、それが同年代の青年のうちでの紛れもない成功者であることを知っている。
 彼は、自覚的には、そのことに対してほとんど優越感を覚えていないかもしれないが、しかし_ここが問題なのだ_彼は自分が社会的優位にあることに負い目を覚えているわけではない。自分の社会的優位をそのままにして、下位の者を偏見なく暖かく見ているだけであり。これは無限に簡単なことであり、そのことにより「謙虚」という賞賛を浴び、そのことに彼が悩まないとすれば、無限に狡いことになる。
 別れたあと、B君やB君の両親のうちに何やら居心地の悪さ、言語化できない不快感が残ったのではないだろうか?とりわけB君は_事実いかに感じたかは推測するしかないが、そして本人にさえわからないかもしれないが_一瞬「自分はこれでいいのだろうか?」という疑問にとらわれ、そしてその疑問を吹っ切って仕事に取り掛かったように思われる。

 つまり多くの読者は中島自身が東大出身者であるという事を知って読んでいるので、この箇所にはある種の自虐的ナルシズムの臭みを感じる人は多いかも知れない。
 しかし実はそれ自体さえそういう部分が好きで中島義道のエッセイや論説を読むという人も他方必ずいるのである。そして中島はそういう人にだけそっと語りかけているとも言える。ここでも中島の全ての人に語りかけることなど出来はしないといういい意味での諦念が示されている。
 まあ一言言わせて頂ければ有名大学に入学するということはやはり人生の最初のステップの勝者にしか過ぎず、問題は卒業した後どれくらいの仕事を出来るかである。尤も確かに日本では有名大学卒業の方がより就職条件として有利であろう。そのことは否定しない。 
 要するに中島がここで言いたかったこととは、敢えて東大生と職人の道に進んだ青年を比較するような試みを番組が仕組んでいることである。これ見よがしではあるからだ。
 尤も職人になるのは自由だし、若い青年にとっては一大決心ではあるだろうが、この中から本当に優れた人になれるのは極僅かであろう。それは東大生の今後と変わりないとだけは言える。
 もう一つだけこの本で釘付けになった箇所があるので、一応部分的に抜粋しておこう。
(第二章 自分に対する肯定的感情 中 141ページより、社会的劣位に立つ者の自尊心)

 先に検討した「人間としての誇り」に比べて、それほどの極限状態に陥っているわけではないが、高学歴を有した小説家や評論家や大学教授ほどの知的職業を目指しながら、志を遂げない人々の群れが最も自尊心を抱きやすい。彼はかつては学校秀才であり、仲間たちのうちで明らかな優位に立っていたが、いまやその多くの者にも後れを取り社会的にもは劣位に立つことを余儀なくされている。この逆転に対する苛立ちが、彼らの自尊心をさらに燃え立たせるのである。

 しかしこの人は優位とか劣位といった虚栄的心理に異様に関心があるのだな、と私はこの箇所を読んだ時そう思った。しかし少なくとも自分の中の「私はそうではない」という意識を隠蔽して、先ほどの東大生のように自己卑下を相手に示すようなことだけは絶対したくはないという気持ちだけは伝わってくる。

 ここで今までの話しを鑑みて、ちょっと私なりに自己流であるが考えてみると、結婚というものが幸福である(少なくとも相手とあまり波風も立てずに生活出来て、間には子供もいるという条件が揃っているとしよう)としてそのことに対して充足していない人に対して結婚をしている人であるなら、あるいは中島の言うように「気の毒に」とそう思うかもしれない。
 例えば人生に一回だけ恋愛をして肉体関係もあった相手がいて、その後すぐに別れてその思い出だけを胸に生涯独身である人を、そういう衝撃的経験はないけれども平凡な結婚をして子供も儲けた人が気の毒に思うということは社会的にはあり得るかも知れない。しかし面白いもので、理想の異性と一回だけ相手をして貰いその後その思い出だけで生涯独身である男性が私の隣に座ってその一回だけの恋愛をしてよかった、と私に語ったとしても恐らく私はそれがその人の幸福であるのなら別段それでもいいと私ならそう思う(事実エリック・サティ<作曲家>は生涯に一度だけ画家モーリス・ユトリロの母親であるシュザンヌ・バラドンと恋愛関係に陥り<ユトリロは少年だった>数ヶ月の蜜月の後に離別して、以後一生女性とは縁がなかった)。
 しかしそう思えない、気の毒にとしか思えない人もそれは中にはいるのだろうとも思う。要はこのことはそれだけでのことである、とも言えるくらいに小さな問題である。
 その意味ではそういうことに至るまで根掘り歯掘りこういった論説を企てる中島義道という論客はよほど社会的正義感が強い人だな、と感じる人は多いに違いない。何故このように拘るのかということにおいて中島義道は少なくとも自分が特別な人ではない、と考えしかも特別な人間であってはいけないと考え、少なくともそういう特別な人間となって上から目線で全てを語る論客になりたいなどとは露ほども考えていないということを積極的に示している(時には示し過ぎてもいるが)ということである。それが恐らく現実の全てであり、それが哲学者としての理念とか使命感からか、人間性からかということを考えることは全く何の意味もないとは既に述べてきたとおりである。
 しかしこの問題も実はかなり著述家としての中島のスタンスとか哲学的命題とも密接に結びついているので、この部分からの論説は一旦中断して、又別の機会にそのことは考えてみることにしよう。
 しかしこの種の他人に対して気の毒に思うこととか、社会における矛盾を考えること自体は常に人間がしてきたことである。その一つの孤独死の問題がある。そしてこれも第二章で扱おうと思う。

 時に言葉は他者を深く傷つける。先に引用したサリドマイド児に対する記述もその障害の人が実際に読んだらどうだろう?当該者ならその記述自体に憤りを通り越してある種の絶望感を抱きさえするかも知れない。
 しかし中島の視点とはそこにあるのではない。そういう可能性があることを重々承知で敢えてこの種の論説に踏み切らせるものとは恐らく日本が(他の国でもそうであるかも知れないが、中島は我々と同じで日本人であるから、そこから問題を見出していくしかないし、そうすべきである)障害者への差別に対して厳重に処罰する空気が倫理的に濃厚であることが実は端的な逆差別ではないのか、という視点からこのテクストでは主張しているのである。つまり我々は障害者に対しては向こうが多少横着な態度を取ったとしても尚大目に見てあげなければいけないという不文律があるのなら、それこそが本質的差別だと言っているのである。この論点は先に引用したウーマンリブ運動の闘士たちへの批判でも内在していた。
 この中島による告発をもう少し分かりやすい例で考えてみよう。
 ここのアルツハイマー病に冒された父母のどちらか、あるいは両方を持つその息子夫婦の立場から考えてみよう。この息子夫婦は益々日々黄昏を生きる父母の為に自分たちの幸福の一切を諦めなければいけないのだろうか?つまり介護者の側の苦悩を決して語ってはいけないのだろうか?だってそうすればそれも又一つの障害者に対する差別になるからである。
 そうではないだろう。
 つまり言葉自体は確かに理解する者に対しては酷い棘になることもある。では相手が既に言葉の意味さえも理解出来ないアルツハイマー患者であるなら、何を言っても許されるのか、どんなに自分たちが育てた子供なのだから迷惑をかけてもいいのだろうか?
 とどのつまりそういった問いへとサリドマイド障害の人たちへの違和感を述べることの正当性への問いは抱き合わせになっている。
 つまり言葉とは一つには同じ感覚を共有しあう存在者間において意味伝達、意思疎通上の権利問題という位相で語られるべきであり、更にもう一つとしてはどの社会成員にも伝達されることが適切か否かという位相において語られるべきものである、ということだ。
 この問題は生理的欲求充足としての言葉の持つ自然事実と、社会成員的存在者としての国家、民族共同体成員としての社会事実としての全く異なった位相による権利問題としての問いが介在している。
 そしてこの二つは同時に我々にとっては必要だが、しばしば相互に衝突し合い、矛盾が生じることもしばしばだ。中島が語る哲学の誠実性とは、この権利問題へと関わる。
 中島は「差別感情」に於いて、序説 何が問題なのか に於いて 「自然である」という判断に潜む差別感情 に於いて、次のように述べている。(序章 何が問題なのか 中 「自然である」という判断に潜む差別感情 17~19ページより)

 こうした態度は、「自然である」という言葉を因習的・非反省的に使用する態度からの決別と言いなおしてもよい。フッサールの言葉を使えば、各人が自然的態度から「現象学還元」を遂行して、そこに開かれる新たな世界を見渡すことがここに要求されている。なぜなら、差別問題において「これは、差別ではなく区別だ」と言い張る人は、「自然である」という言葉を因習的・非反省的に使いたくでうずうずしているからである。それは男として自然だ、女として不自然だ、中学生として自然だ、日本人として不自然だ・・・・・というように。彼はこうした反省を加えない「自然である」という言葉に行く着くことによって、すべての議論を終わらせようとする怠惰な「自然主義者」なのである。
 彼はそこに潜む問題をあらためて見なおすことを拒否し、思考を停止させる人である。「結婚するのはあたりまえ、女が子供を産むのは自然」という結論をいつも手玉にしており、その鈍い刀ですべてをなぎ倒すのだ。
 ある人が、差別におけるコンテクストにおいて「あたりまえ」「当然」「自然」という言葉を使用したら用心しなければならない。差別感情の考察において、「子供が学校に行くのはあたりまえ、大人の男が働くのは当然」と真顔で語る人こそ、差別問題を真剣に考えている人にとって最も手ごわい敵である。なぜなら、彼らはまったく自らの脳髄で思考しないで、ただ世間を支配する空気に合わせてマイノリティー(少数派)を裁いているのだから。しかも、そのことに気づかず、気づこうとしないのだから。
 六年前のことだが、大変悲しい事件がすぐ私の傍で起こった。就職のことでも結婚のことでも悩んでいた青年が葉山の海岸で入水自殺したのである。その通夜に席で、息子の棺を前にして父親は「結婚するのも、就職するのもあたりまえのことじゃないか!」と叫んでいた。私は「まさにそういう考えが彼を追い詰めたのだ」と涙を流しながら確信した。だが、私は何も言わなかった。そう語る父親の無念さがよくわかったからである。彼はもう十分すぎるほど苦しんでいたからである。息子によって復讐されたからである。
 差別に対するとき、最大の敵は「よく考えないこと」である。あらゆる差別はよく考えないこと、すなわち思考の怠惰から発生する。よく考えると、すさまじく複雑に入り組んでいる問題が鮮明に見えてくるのに、よく考えない者にはそれが見えてこない。見えてこないから、そこに問題はないと思い込むのだ。こういう怠惰な輩が差別における最大の加害者である。しかも、自分が加害者であるとはつゆ思っていない鈍感きわまりない加害者である。

 この中島の論説を下に考えると、先ほどのアルツハイマー病の親を介護するのは当たり前ではないか、自然ではないかという言葉によってある息子夫婦は生涯の貴重な数十年をひょっとしたら犠牲になるかも知れないと思う時、勿論そのことで病んでいる親を見殺しにすることは決して出来ないけれど、この介護自体が齎す苦悩に直面する息子夫婦の人生における幸福追求のための問いは「正直に」誰か親身になって相談してくれる人に語られるべきではあろう。
 そして中島はこれらの自らが加害者であるという意識に対する無頓着を日本に固有の文化的感性を起源であると捉える。そのために文化人類学的考察も行っている。少し長いが重要であると思われるので掲載しておこう。(第一章 他人に対する否定的感情 中 オソレとケガレ、オソレは現代に生き続けている 108~112ページより)

 オソレとケガレ

 次に、わが国の差別の歴史を感慨してみる。稲作、仏教、天皇制が浸透すると、村に定住し稲作に従事し仏教を信仰する「常民」(柳田國男の造語)の基準がはっきりする時に、それについていけない人間がその集団から排除されていった。これはケガレと結びつき、彼らは常民のなしえないケガレに繋がる仕事をなす者(動物を扱う猿回しや皮革業など)として社会的場を与えられていった。
 わが国において、そうした集団が差別の対象となっていったと考えられるが、その中には身体障害者や「らい」と呼ばれた病者も含まれていた。とはいえ、ケガレは必ずしも純粋な否定的概念ではなく、常民集団から排斥されながら、同時に呪術的力をもつ者とみなれていた。網野善彦によると、ケガレがもともと含意していた二重性は、すでに十三世紀においいてマイナスの意味に限定されていた。

  どうしてこのような意義ができあがったかについてはいろいろな議論がありますが、私はこのころ〔十三世紀_中島〕ケガレに対する観念が変化してきたことに理由があると考えています。それ以前のようにケガレを恐れる、畏怖する意識がしだいに消えて、これを忌避する、汚穢として嫌悪するような意識が、しだいに強くなってきたことによるのだと思います。(『日本の歴史をみなおす』筑摩書房9

 ケガレはオソレと結びついている。オソレとは、「恐れ」と「畏れ」とが分かちがたく結びついた概念であって、ケガレを清める力をもった者もまた被差別者であった。被差別者は、人間以下の者(動物に近い者)として恐れられたと共に、人間以上の能力をもった者として畏れを抱かれてもいたのである。こうして、かつては、被差別者に対するオソレが「恐れ」と「畏れ」の二重構造をいていたがゆえに、つまり「恐れ」が「畏れ」に裏打ちされていたがゆえに、彼らにまだ社会的場所はあり、その意味で救いはあったのである。
 斎藤洋一と大石慎三郎は、『身分差別社会の真実』(講談社現代新書)において、江戸時代における穢多・非人が置かれていた状況を描き出しているが、彼らを現代から悲惨であると決めつける危険性を警告している。

 オソレは現代に生き続けている

 反省してみると、じつは現代日本人もまだ恐れと畏れの入り混じったオソレから完全には脱出していないことがわかる。海開きや山開き、あるいは地鎮祭は、単なる気休めなのだからやめればいいものを、絶対にやめない。海開きをしなかったがために、水難事故が多発すると気持ちが悪いからであり、地鎮祭をしなかったがためにその家に不幸が続くと後悔するからである。つまり、これらの行事は完全な因習なのではなく、気休めとしてもなおその威力をわれわれに及ぼすことができるのである。
 言霊思想がこれに結びついている。「死」と「四」とは単なる単語の発音の同一性があるだけなのに、病院には四号室がなく病院のベッドには四番がない。結婚式で「切る」と語ってはならず、試験前に「落ちる」や「すべる」という言葉を使ってはならない。言葉に力があると思い込んでいる習慣からわれわれは抜け出せないでいるのである。
 なぜか?合理的原理で動くように見える現代人も、禍の究極の原因はわからないからなのだ。でなければ、なぜ結婚式は大安の日に予約が埋まるのであろうか?仏滅の日に閑古鳥が鳴くのであろう?これほどの絵馬・達磨・破魔矢が売れるのであろう?縁起を担ぎ、占いがはやり、おみくじが廃れないのであろう?もちろん、平安時代の貴族のように日常生活がそれでがんじがらめというわけではないが、やはりこのすべては恐れという感情と結びつけなければ説明がつかない。
 こうしたオソレが日本人の心に生き続ける限り、不合理な差別感情もまた根絶されないのである。
 ここでまた個人的信念を吐露すると、二十年前までは、私もごく普通に神社を訪れて破魔矢を買ったり、お寺の境内で達磨を買ったりしていた。葬式からの帰りには玄関先で自分のからだに塩を振りかけた。だが、その後ぷっつりそうしたことをしなくなった。結婚式にも葬式にも行かず、祝いの言葉も語らなくなった。単に不合理だからではなく、ここに一つの暴力があるなあと感じたからである。
 同じ振舞いを読者諸賢に勧めるわけではない。だが、こうした「迷信」にあまりにも没入することは危険であると思う。占いや運勢に過度に左右される人は、差別感情の強い人になりやすい。オソレ(恐怖)のあまり、人間はどんな残酷なことでもするということは、中世の魔女狩りやナチスのユダヤ人迫害のみならず、常に肝に銘じておかねばならないのである。
 しかし、現代における次の現象も恐れてはならない。オソレが恐れと畏れの二重の意味を保持しているあいだは、オソレれられている者の居場所はある。だが、それが「畏れ」という意味を脱落させて「恐れ」に限定化されると、被差別者は単に恐ろしい人になってしまう。とりわけ、明治以降の近代社会において、オソレから「畏れ」の要因は希薄化したが、人々の差別意識が残存し、その結果、被差別者は単に恐れられる者へと転落していった。同時に、差別それ自体が人間の平等に反する「悪い」こととみなされ制度的に差別は撤廃され禁止されると、それでも根強い差別意識は残っていたので、かつてはいたるところに見えた差別は見えなくなり隠されていく。被差別者はますます誰も見たことのない「恐ろしい」人となっていく。これが差別にまつわる現代特有の残酷な事態である。

 この箇所は最後の人間のマイナスの想像力が元凶となっているという主張は、言語が差別意識を生むと考える中島(次回そこのところは詳しく論じる)にとっては重要な認識である。
 しかしこれらの記述内容一切は、「差別してはいけない」とされる当該者が読めば、やはり読めば何らかの形で不快感を催すものでもある。
 しかしこの時中島は道徳論者として一切差別対象として取り扱われる当該者の権利死守の為には何も語ってはいけないのか、という自然事実的権利問題を念頭に置いて考えているのだ。そしてそれは中島が一人の哲学者としての誠実性へと目覚める瞬間でもある。
 ニーチェ、フッサール、サール等各時代のどの哲学者によっても語られてきた誠実性という命題は哲学者個人に対して自己の哲学的感性を一般化する使命へと駆り立てる。しかし哲学者は一方そのようにして一般化した自己からしか常に思考することが出来ないと自覚している。
 そしてその自己とは紛れもなく神でも仏でもないちっぽけな自己であり、その事実に忠実であるなら、自らの感性と相容れない命題へと突き進むことを彼は生理的にも受け付けない。その時彼は自己の感性へと忠実な表現方法を模索する。その一つの処方として中島が文学を選び取ったという事実はその意味では必然であったと言える。
 つまり彼は哲学者固有の理念に忠実に自己を一般化しようと欲すれば欲するほどちっぽけな実存者としての自己に直面し、その感性のどうしようもない解消出来なさを、鎮める為に哲学以外の方法を見出さざるを得なくなる。中島にとってはその一つとしてエッセイがあり、更に小説へと展開していくわけだ(事実中島は既に小説的エッセンスのものを「生きにくい・・・私は哲学病」において書いている。この 哲学童話 イマヌエルちゃん については次回「ウィーン家族」について解析する際に取り上げることとする)。

 しかし一方永井は同じ哲学者として中島同様、誠実性を論理命題へと組み込まざるを得ないが、中島のように語り得る限り語り尽くすという方向へとは自ら哲学者として向けられないのだ。つまり永井にとっての哲学的誠実性とは、極力語る「べき」命題を絞り込み必要最低限に留めておくという方向性へと舵を切るのである。その部分では永井は明かにウィトゲンシュタインの「論考」の結語を著作活動自粛性において実践している。中島が自らの日常的関心事項においてそうしているのとは少し違うが、共にこの二人の哲学者がウィトゲンシュタインの言辞を理解しているということはよく理解出来る。
 この二つの方向性の違いは実は二人の哲学者の文体にも違いとなって如実に現れている。そのことは 第七章 著作家としての戦略と哲学者の在り方 において詳細に分析する。

 今回の最初に挙げた中島による問題提起は、日本の一般大衆的娯楽に欠かせないユーモアやアイロニーの問題とも関わる。しかしこの問題もかなり根の深い。今回はユーモアとアイロニーの全てが中島によって述べられている前回の引用文の中の「これまで、差別についてさまざまな考察を重ねてきたが、その独特の見えにくさは、差別が人間社会にとって価値ある部分と微妙に接していることである。このことは「誠実性」という価値において極限に達する。私は自分の感受性と信念に忠実でありたいと願うが、まさにこの欲求自体が差別感情と独特な親和性をもつのである。」という部分に全てが実は集約されていたのである、ということだけを述べるに留め、いずれ本格的にその命題へも取り組んでいこう。
 だが触り程度に述べておくと、つまり我々の美意識の全ては実はかなりの部分で人間の残酷さと結びついている。例えばそれはヴィーナスのような理想美においてもそうだし、また笑いという要素は須らく残酷、つまり笑われる対象に対する軽蔑と差別感情が支えているということだ。つまり美にしても何にしても最高善とは端的に全ての悪を認めないといことから必然的に悪に対する究極の悪という要素があるわけだし、又笑いとは笑われる対象の中に滑稽さを発見することであるから、必然的に笑われる対象に対する侮蔑を必ず含むということだ。しかしこれらの要素は人間生活において必要である。従って我々はこれらを蔑ろにすることが出来ない以上、その自らの中に潜む悪を見つめ続けいかなければならないということだ。

 さて中島義道の哲学者としてのある種の潔癖とも受け取れる態度について粒さに見てきたわけであるが、ある部分中島の哲学的態度とも人間的性格とも言えるエッセイでの幾つかの記述では全く相反するようなタイプの言説の中にも見出せる。
 それは次のようなもの二つの間でもそうである。

(「私の嫌いな10の言葉」2000中、新潮文庫78~82ページより、 NHK『のど自慢』のやりきれない明るさ )

 ついでに、もう一つ私の「趣味」にかなった番組は、老舗のNHK『のど自慢』です。そこには、もう盲めっぽう明るい人ばかり出てくる。始まるや否や、舞台の上も舞台の下もゲラゲラ,ハッハッハッという爆笑の渦。出場者は、みんな親孝行であり、家族思いであり、夫婦愛の体現者である。アナウンサーが「天国にいるご主人に」とか「いつまでも元気なおばあちゃんに」とか「北海道で働いている息子さんご夫婦へ」と思い切り明るい声で紹介するなか、恥ずかしげもなくマイクに向かう。そして、こういう「思いやり節」の人ほど恐ろしく下手。
 プロのゲスト歌手がふたり審査席に控えていて、彼らは不思議なほど下手な歌に対しても褒めまくる。かならず出てくるのが、八五歳の老婆や九〇歳の老人。彼らもうんざりするほど下手。というか、歌になっていない。ところが、だいたい彼らが特別賞に選ばれる。テレビを見ているうちに、次第に私は体調がおかしくなる。息がつまってくる。軽い吐き気がしてくる。そして、やはり心臓がどきどき高鳴る。しかも、そうしながら、いつも全部終わりまで見てしまうのです。
 そんななかで、(ずっと前の)ある日の出場者の「造反」はおもしろかった。そのとき、カネ二つの出場者は唖然としている。アナウンサーがゲストの歌手に感想を求めると、「とてもお上手で、感心しました」とのたまう。すると、するとです。その男は「じゃ、なぜ合格じゃないんですか?」と素直に聞いたのでした。アナウンサーはおろおろして「いろいろありますからね・・・・・・」とか言って、「はいっ、次の方!」と大声で叫んでいましたが、あれほどおもしろかったことはない。たぶん(いや絶対に)、リハーサルの段階で、出場者は結果に対して文句を言ってはならないと厳しく言われているはず。ところが、それをみごとにびりびり引き裂いて、私を現実の風通しのよい世界に引き戻してくれた。尻のむずがゆさも、息苦しさも、心臓の高鳴りも、あっという間にふっとんでしまいました。でも、この男もバカだね。歌手が褒めるのはしかたなくであることがわかないのだから。彼の顔めがけて「ひとりで歌っているんじゃないからな!」と言いたくなります。ああ、愉快だ。ああ、いい気分だ。
 と書いて、このへんでむやみに中野翠くさい表現だと自分でも気がつきました。目下熟読しておりますので、影響されたものと思われます。中野さんは、さらに「女性語」を巧みに取り入れて、味を出してる。「ああ、愉快ってのは、このことなのよね、いい気分だってのは、このことなのよね」という具合に。こうしたほうが、たしかに味が出るでしょう。私も真似て(ビートたけしのように)適当に「男性語」を加えて、「ああ愉快ってのは、このことだぜ。ああ、いい気分ったあ、こいつのことじゃねえか」と言うと味が出るのかもしれない。
 しかし、もうひとひねり考えると、女である中野さんは「・・・・・じゃねえか」という男性語を使えるが、男である私は(普通)「・・・・・なのよ」という女性語を使うことはできない。ここに(一般に)女はスカートもズボンもはけるが男はズボンだけ、という男女不平等が開けてくる。
 これは、もともと女性の言語的被差別状況から生まれたこと。女性の学者は、論文を書くときは「・・・・・・なのよ」と書いてはならず、「・・・・・・なのである」とか「・・・・・・ではなのだ」と書く。これは男性語です。講演となると、やや女性語をまじえて「・・・・・・と思いますの」と言ってもいい。そしてパーティーともなれば、ビールを注ぎながら、「・・・・・・ではないのか」と言ってはならず、ほぼ完全に女性語を駆使して「ほんとうに困りましたわね」と言う。この間、男性は丁寧さ(堅苦しさ)をほどよく加減すれば男性語で通せるわけです。
 これは英語帝国主義と同じ構造をしている。英米人(英語母語国人)は世界中英語だけです。われわれ非英語母国人は、英語と母語との二重言語を巧みに使い分けねばならない。一見、英米人のほうが便利に見えますが、一旦マスターしてしまえば、非英語母国人のほうが豊かな言語生活を営めるのです。
 大阪人は大阪弁と共通語を自由自在に操って、東京・山の手人のほぼ二倍の豊かな言語空間に住んでいる。大阪女性とまりなすと、共通語男性語、共通語女性語、大阪弁男性語、大阪弁女性語という四言語を自由自在に駆使することができる。つまり、女性語や大阪弁といった被差別言語がその個人を豊かにしていく。差別構造がいつしか逆差別構造に転じていくわけです。女が「・・・・なんだよ」と言えて、男性が「・・・・なのよ」と言えない根は深いのです。

(「ぼくは偏食人間」2001改名「偏食的生き方のすすめ」新潮文庫中、201ページより、 ビーフカレーは食べられるが、牛丼は食べられない )

 世間の人は哲学に期待しすぎる。哲学者が「ほんとうのこと」を語りはじめたら、世間を流布しているほとんどすべてのコミュニケーションは頓挫する。多くの人が誤解しているが、芸術と哲学は相容れない。哲学的音楽や哲学的造形美術や哲学的文学などまやかし以外の何ものでもない。とくに、画家たちの哲学的センスのなさにはいつもいらだっている。上野の公募展などに行くと、「無限」とか「時間」とか「宇宙」とかの表題のもと、勝手な造形が並んでいるが「無限」をこんなかたちで形象化することはできない。
 哲学者が問題にするのは、なぜ絵画は離れなければ見えないのか、なぜ「泣いている」は描けるのに「泣いていた」は描けないのか、といった問いである。こうした疑問を描くことはなおさらできない。それはなぜなのか、とまた疑問が生ずる。

 まず前の引用文は、明らかに「差別感情」中の反エリート主義的庶民の誇りの本願誇り的部分の記述(今回の最初の引用箇所での①)と相通じる主張だし、「生きてるだけでなぜ悪い?」でも香山と語られている女性の男性化は認められても、男性の女性化は認められないという案外古い価値観(彼は対談で自分は古い考えの人間ですと告白している)が垣間見られる。最近は性同一性障害を含め、さして女性的男性に対して偏見の目も少なくなってきたから、これは中島の世代にとっては、ということなのだろう。まあそれはそれで理解出来はする。後半は完全に中島固有の差別論となっている。
 後者はもっと哲学専門的な感性の部分の主張であるが、共に「世間ではこう言う「不文律」がありそれにつき従っておればいいということでは哲学することなど出来はしないし、自分はそういう意味では哲学的問いを理解している、そしてそういうタイプの成員は社会ではそう多くはいないし、いなくてもいい」という考えである。これは開き直りとも言えるし、諦念とも言えるし、自らの社会でのポジション自体に対する受け取り方を謙虚に自省的に語っているとも言えるし、そのどれでもなくどれでもあるというところだろう。
 つまり中島義道という哲学者の中には、この差別的マジョリティーに対する告白と、哲学的命題論的資質とが矛盾なく同居しているのだ。これは私が前回述べた中島はそもそも広く一般の読者の為に執筆しているのではないし、且つ哲学者的命題を問う資質が全ての人の備わっているとも考えてはいないということとも勿論直結している。
 ついでに中島の問題提起に少しだけ取り組んでみよう。
 絵画は離れなければ見えないかということは単純で、絵を書く画家が離れて描いているからである。従って目を画面にくっつけて描いた作品(例えば山下清のような)は眼をくっつけて鑑賞する方が理に敵っていると言える。
 それから「泣いていた」は当世風のマンガの吹き出しを使えば描けないことはない。そのこと自体を考えることも更に吹き出しに階層を設ければ解決する。尤もそれは中島のような趣味のいい(中島義道は母上様も絵画を香月泰男に師事していたりして家庭環境的にもかなりの絵画通である。そのことは「孤独な少年の部屋」などでも書かれている)美術通には納得出来ないことかも知れない。
 そもそも絵画とは一瞬で全てを見渡せるものなので、文章のように時間の推移で理解する論理世界とは本質的に異なるとは言えるだろう(まあ、これはこれで大問題なのだが、ここではこれくらいにしておこう)。

 中島義道という哲学者、エッセイスト、作家を分析する上で極めて重要なことは自分自身あまり愛着というものを一切に対して持たない人間である、という自覚は自己に対してあるということだ。それはある部分では日本的庶民感情論的には冷たいイメージを抱かれがちであるが、それは違うのである。要するに彼は思惟の合理主義者なのである。その点は私もそうかも知れない。人間は死ぬのであり、いくら死んでいく人との別れを悲しんでみても死ぬとは全ての人類にとっての運命なのである。だから悲しいとか切ないという感情自体それは生きているという証拠なのであり、私は長寿を全うした人の葬式なんて明るくするべきだと考えている。
 中島の愛着のなさを象徴的に示している箇所は、「差別感情」中の先に引用した 家族至上主義 の少し前(第二章 自分に対する肯定的感情 中 3帰属意識 中 帰属意識とアイデンティティ 抜粋148~150ページより)に書かれている。

 現代日本では、愛国心に関しては、ずいぶん批判的で警戒した発言も耳にする。過度に国を愛する発言を多くの国民が自然に自粛している。なかなか健全で聡明な光景だと思う。それは、戦前の異様なほどの愛国心教育に対する痛み(トラウマ)であろうが、アメリカや中国などの「大国主義」に対しても、冷淡に醒めた眼で見ている現代日本人は、聡明で知的であると思う。
 同じように、欧米からエコノミックアニマルと軽蔑されたひところの時代への反省もあって、会社のために身を捧げるという態度に対しても批判的な視線が向けられる。これもまた、健全な態度である。
 だが、郷土愛はどうであろうか?私は九州の門司(現在の北九州市門司区)で生まれたが、幼児を過ごしただけの故郷にはまったく思い出はなく、少年時代を通じて多摩川をはさんで東京南部と川崎で育ったが、そこには何の愛着も覚えない。私は個人的には郷土愛のまったくない人間なのである。しかし、このことは現代日本ではなかなか通じない。私が九州で生まれたと聞くや否や、あっという間に私に「九州男児」というレッテルを貼ってしまう人、「同郷のよしみで・・・・・」と急になれなれしく擦り寄ってくる人に耐えられない。だから、そう名乗った瞬間に「でも、九州は生まれただけであって何の愛着も感じないのです」と語るのだが、みな変な顔をする。
 故郷に何の愛着も感じない者がいてはいけないのだろうか?私は別に故郷を憎んでいるわけではない。ただ、私には何の意味もないだけなのだ。だg、こうしたことがあってはならないとすら感じている鈍感な(おうおうにして)善人が少なくない。彼らは眼を輝かせて「薩摩はすばらしい」とか「土佐は最高だ」と自分の郷土を誇るのであり、自分がそこで生まれたという「主観的理由」を簡単に消去して「客観的に」すばらしいと言い張るのである。
 一見これほど狭量ではない人もいる。それは、自分の郷土に対する無批判的賛美に対する批判とともに、「人にはそれぞれ大切な郷土がある」と各自の郷土を「相対的に」見ることができる人である。だが、こういう人に限って、生まれた土地に何の愛着もない人を断じて「許して」はくれない。自分にとって単なる平凡な山川でも、彼にとって郷土の山川は格別であろうと眼を細めて彼らの友を眺める、という態度から脱することはないのである。

 ここにも我々は中島義道の中にある徹底した合理主義、神社で祈願したりすることさえ意味を感じないという一つの人間的資質を垣間見ることが出来る。中島にとって合理的であることは自己内感性に忠実であれ、ということとイコールなのである。だから「戦う哲学者」という異名を中島が享受するのは、端的に適当に日本古来の全ての習慣である地鎮祭とか塩を振りかけることを躊躇わないということが一般的日本人であるとしたら、それさえも自戒の念として拒否するという徹底した実践論になるわけだが、合理的に考えれば中島の選択は恐らく正しい。しかし文化とはそもそも中島の謂いを借りれば「差別が人間社会にとって価値ある部分と微妙に接している」ということの価値ある部分なのであり、そのことを中島自身も熟知している。しかしそれでも彼はその惰性的傾向、差別意識へと直結していく全ての行為を信条として拒否すると決意するわけだ。そうすると中島の中には文化を拒否してでも自己信念を貫きとおすことが哲学者たる使命だという考えがあることとなる。そこでここでも大きく中島哲学自体への支持、不支持という二つの分かれ目が存在することとなる。このことは 第四章 二人の哲学者にとっての著作者としての性格 において詳しく論じることとする。
 このスタンスは前回でも触れたが、アメリカの哲学者、認知科学者であるダニエル・デネットや盟友の生物学者、進化論学者であるリチャード・ドーキンスとも極めて近いものがある。彼らは共にキリスト教文化圏の人間でありならがキリスト教に纏わる多くの迷信全てを人類の真の進化上害悪であるとして切って棄てることを辞さない。そしてこの共通性については 第七章 著作家としての戦略と哲学者の在り方 において詳述することとする。

 しかし中島の差別感情に対する問掛けがもっと以前まで遡って考えることが出来る。次回は「哲学者のいない国」に於ける 差別感情と「好き・嫌い」 から考えて、続いて小説「ウィーン家族」を下に中島の文学志向について考えてみよう。
 後半では中島の分裂的傾向を厭わない哲学者としての理念追求と文学的資質が衝突し合う部分に対して著作家として中島がどう折り合いをつけているかという部分に着目して「差別感情」と小説「ウィーン家族」の双方を取り上げて考えることとしよう。その際に永井の幾つかの論説も手がかりにしよう。

 ここで長々と書いて来た中島義道という哲学者を簡単に総括しておきたい。
 中島は端的に哲学を自分のように固有の繊細さを持つ人間にのみ許された感性と知性のゲームであると捉えている。勿論当人は断じてそういう言葉を使わないし、「あなたはそうだ」と言われれば否定するだろう。だが彼の著作物をそれこそ繊細に検証してみれば、明らかに彼は彼が認める哲学的資質は誰にでも備わっているものではないと考えているし、それは彼が異様にコンプレックスを抱いている文学(そのことについては今後も折に触れ述べていく)などでも特権的な人間による所業と捉えている(「人生に生きる価値はない」で触れられている。そのことは 第三章 中島義道の哲学的動機と永井(中島義道の不幸道)、第七章 著作家としての戦略と哲学者の在り方で詳しく精神分析的に検証していく)。
 要するに官僚的出世をすることこそ出来なかったが自らの学歴を誇り、虚栄心も、優越意識も濃厚に抱いている。しかし実際に哲学一つとってみても、中島義道に許容され得ないタイプの哲学、例えばその一つに功利主義的哲学(ホッブス、ミル、ベンサム)や現象学(彼自身フッサールなども時々引用するが、殆ど現象学的主流に関心があるとは言えないどころか積極的批判者である)があるし、プラグマティズムや論理実証主義哲学、あるいは分析哲学の中でも殆ど触れられることのないルイスやデネットといった逸材も含めればかなり広大であると言える。しかしそれらに対する言及が殆どないということは、彼自身が哲学という広大な領野から見離されたくは決してないという決死の決意があるからであり(自分にとって自信を持って発言出来ないタイプの哲学に手を下手に出さないということは哲学者、科学者といった論理一般に関わる仕事に必要な小心でもある)、そのことは裏を返せば哲学がなくなってしまった時に彼自身が生きている存在理由を見失ってしまうという恐怖があるとも言える。そこに勿論彼自身の青春の挫折と彷徨との関係もある。
 しかし私は哲学という学問はそういう決死の決意からするりと零れ落ちていくものであるとも考えている。そしてそのことも中島は知っている。そして自らの中に内在するコンプレックスはライヴァルである永井や、思想家である小浜逸郎といった存在から養老孟司といった存在へも対他的構えという意味での射程範囲は広がっていると私は見ている。つまり中島にとっての私とは極めてピアプレッシャーに近いものなのだ。
 次回詳しく論じるが「ウィーン家族」で描いていることがそのことを端的に示している。哲学に多くを求め過ぎると彼が言う世間に背を向けつつ、その背とは自らの家族であり友人たちであり自分以外の一切の他者である。中島は永井と最も異なる点として自分の周囲の全ての他者をマジョリティーとしながらマイノリティーである自分をミニマルな防波堤とすることによって、語り過ぎないというモットーでいる永井と対抗するかの如く、語れることはどんなに些細なことでも語ってしまえという決意で生きている。
 哲学は広大な範囲の学問である。しかしそれを敢えて求め過ぎると世間に言い放つことを通して「そんなに誰でも出来るものではないよ」と宣言することで辛うじて自分のポジションを死守するし、その死守する自らの小ささ(それは恐らく私にもそういう砦があるのなら死守しているだろうし、永井や他の全ての論客も同じであろう)を隠しもしない。
 つまりその真摯さこそ中島義道という哲学者にしてエッセイストで作家である著作者に顕著で固有な資質である、と言ってよいだろう。(つづく)

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