私とは何かは哲学永遠不変のテーマだが、日本人の二人の哲学者がこの命題を全く違った形で示している。中島義道氏と永井均氏は共に私がある時期出会った哲学者である。出会うとは僭越だが、出会いは師弟という形式的レヴェルを遥かに超え得る。何故他にも大勢哲学者はいるのに、この二人に私が啓発されたか?それをこのブログで究明しつつ来場者と共に私や私であること、私の感性について考えたい。このブログは二人の哲学者に共鳴する全ての人たちによる創造の場である。

Sunday, January 24, 2010

第一章 道徳とは何か、どのように位置づけたらよいのか⑩

 今回からは中島義道の「差別感情の哲学」と「ウィーン家族」という最新作二作から考えていこうと思う。当初本章のまとめということでより簡潔に中島の最新作から考えていこうと思っていたのだが、最近私が関心のあることとオーヴァーラップする部分がかなり多かったので、一回で終わらせず更にあと二回くらい延長して本章を書いていくことにした。従って今回は「差別感情の哲学」のみを扱う。詳細を見ていく前にまずこの二冊を出版した最近の中島に関する概観について考察してみよう。
 率直に言ってこの二冊は中島義道という文筆家、あるいは著述家としてのアイデンティティーがいささか分裂しているのではないか、という以前から私が氏に抱いていた感慨をより深める結果となったことは言うまでもない。
 つまり後者は明かに文学であり小説であるが、前者は完全に哲学者としての使命感によって書かれている。そういう意味では中島という著作家は常に二本の柱が必要である、ということだ。だから前者の「差別感情(以後省略してそう呼ぶ)」(講談社刊)と「ウィーン家族」(角川書店刊)とは相補的でもあると同時にある部分では同じ自身の著作であるにもかかわらず、個々において対立項自体への批判とさえなっている。
 何故なら私はこの二冊を読んだ後感じた事が、小説では読後感が爽快であるにもかかわらず論文の方はいささか食傷気味になってしまったからである。だが論文には今後の中島の考えの方向性が示唆されているようで続編を期待したいという気分も持てたのである。
 中島義道は「人生に生きる価値はない」において「権力や社会や歴史に興味がない」(58ページより)と述べているが、彼自身は明かに哲学専門家であろうとする意志によってそう語られてはいるものの、その実彼は今回取り扱う「差別感情」をはじめ、古くは「たまたま地上にぼくは生まれた」やその後「英語コンプレックス脱出」等において日本人にとっての国際問題である所の精神的コンプレックスや欧米人からの日本人への態度や言動における傲慢について差別について積極的に語り続けてきている。ある部分では哲学者としての中島よりも、本人は自分ではそうではないという意味で否定している社会学という学問からの文明批評家という側面の方が出版界的な存在理由としては大きいとさえ言える。本人はあくまで哲学命題論的にそれらのテーマに取り組んできているのだろうが、社会、歴史、権力といった事に対して専門の学者のように関心がないというだけであり、現実の社会やその無意識の権力については大いに雄弁なる論者である。それは哲学者としての素朴な疑問と学究使命が齎すものであろう。又昨今の「差別感情」やそれより少し前に出版された「人生に生きる価値はない」ではカナダ人の社会学者であるゴフマンの理論、儀礼的無関心を積極的に取り上げている。
 中島の記述には哲学専門家としての自己とそれにとどまらない欲求の自己との間に絶えず分裂傾向があり、それは著作の数を重ねる度に大きくなっている。それが最も顕在化したのがこの「差別感情」であり、「時間論」「カントの自我論」等とは全く様相の異なる論理展開だし、後で述べる作家として作品である「ウィーン家族」との間で最大となる。
 つまり中島義道という著作家には明らかにこのような自己矛盾を自己矛盾のまま提示するというスタンスもある。それはある意味では彼の資質に因るものであるし、ある意味では哲学者としての理念に因るものであり、その二つを切り離すことも出来ない。
 その事は差別論における悲観論的傾向と、それを軽くエッセイタッチで書いていくエンターテインメント性という矛盾においても示されている。悲観論的傾向はこの「差別感情」において全開となっている。何故ならこの本の最後は明らかに哲学者としての倫理的苦悩が示されているからである。私がこの本に対していささか食傷気味であると述べたのは 終章 どうすればいいのか 以前の幾つかの解説によってである。
 彼は哲学者としての苦悩の告白へと至る道筋において重要なことを中島は述べている(136~137ページより、第二章 自分に対する肯定的感情 より)

 哲学者は_社会学者や教育学者あるいは精神病理学者とは異なって_こうした「解決できない問題」に視線を注がなければならない。その巨大な理不尽を押しやって、障害者差別とか人種差別という定型的問題だけを取り扱っている限り、それいかに情熱を燃やそうとも、繊細な精神をもっているとは到底思えない。

 こう述べ如何にそれらの哲学の周辺に位置する学問とは違うかを強調しているが、それは同時にそれらの学問への情熱的なまでの関心をも彼が持っているという事の表明ともなっているのである。ここら辺の告白は永井均には一切見られない。勿論永井もまた社会や教育にも多大な関心を持っていて、それが自らの哲学理論の醸成にも役立っていると言える(その事については別の章で詳述する)が、それはあくまで彼自身の哲学的認識を確認する意味に留まっているが、こと中島に関する限りその関心はそういうレヴェルを超えていると私には思えるのである。つまり哲学者であろうとする意志と、その哲学者という一個人として社会に対峙していこうとする時に感じる矛盾がそのまま中島においては多数の著作活動という形を取って顕在化している、と言うことが出来る。そしてそうする中で彼は恐らく哲学者としての使命から幾分逸脱してさえ反社会的であろうとする感性の哲学者当人の側から出された自己矛盾が哲学的理念から提出されたものであるが故に結果的には社会正義論(本人は断じて自分の著作はそうではないと言い張るかも知れないが、これらの著作を読んで社会正義論ではないと感じる読者の方が遥かに少数であろう)となって立ち現れているという所こそ自己矛盾が自己矛盾のまま分裂傾向を助長するという風に私に感じさせることとなっているのだろうと思う。
 例えば中島義道はしばしばエッセイ等で哲学を役に立たない学問だと言う。だがこれは出版界的に知名度のある成功者がよく使う言葉である。又中島の「差別感情」の理論に基づけば高邁ということになろう。そもそもある学問が役に立つか否かとか、どの学問が一番社会にとって有益で必要とされているかというような問いは哲学的命題以前にそれほど上等な問いではない。
 つまり現代社会に医師や弁護士が不足しているというようなことを除けば、どんな職業でもそのものを必要としている人にとってはそれらの職業は全て必要なのである。例えば芸術家はもし世の中から一人もいなくなっても、恐らく社会自体が直ちに機能不全に陥るというようなことなどないに違いない。しかしアートや音楽を愛する人にとってそういう社会は耐えられないと感じるだろう。そういう意味においてなら中島の言うように哲学以外にも科学でも人文科学系の大半のものは社会機能維持的視点から見れば役に立たないものばかりではないだろうか。あるいは自然科学でも日常生活には役に立たないという意味では理論物理学もそうだし、天文学等もそうであろう。それ等は総じて実用性には程遠い。
 そもそも学問や芸術等というものはそのものがある状況下で要求されるという時代的要請を離れれば医師や弁護士のような意味では一切役に立たないものなのである。
 しかしそういう風に我々に職業的存在理由を問うことの内には、それ自体が即座に哲学的命題となり得るか否かは別として十分問うに値する問いであろう。そしてそのことを問う事の内に人間における他者に対する意識と差別意識という事も必ず介在してくる。そのことを例えば中島は誇りとか自尊心とか帰属意識とか向上心という心の作用を通して考えている。
 その意味では哲学者としての中島がその問題に真摯に取り組んだという事は、その試みが成功しているか否かは別としてもそれ自体評価すべき事である。しかし私にとっての最大の関心とは、中島という一個人の中に介在する一個の矛盾である。中島は対話論者であることを物語る「<対話>のない社会」や「うるさい日本の私」などの著作では完全に日本を暗黙の了解とか暗黙の差別をする国民性として哲学者個人の命題的態度において描出されている。だからこそ中島は「言葉を尽くして語り合おう」と主張する。その分では彼は完全に合理論的、理性論的コミュニケーション信仰者である。だからそれは責任倫理的である。
 しかし同時に彼は「差別感情」においても再び大きくクローズアップされている一般の善良な人々(この解釈にも多分に哲学者による思考実験のための設定という要素が皆無ではないとも言えるのだが、そのことは深入りせず、ここは現実の日本人の姿と解釈しておこう)の持つ無意識の悪意、傲慢について深く抉ろうとする。
 例えば「差別感情」における結婚していない人に対する結婚をしている人からの傲慢といったことについてである。そしてそこで彼は自分は結婚しているから、そうではない人に対して傲慢になっていることを自省している(尤もこのような告白は結婚をしていない人から見れば極めて「余計なお世話だぜ、ほっといてくれ」と思わせるものでもあるだろう。そのことに関しては次回詳しく触れる)。また本妻が亡くなった時に悲しみを他人に示すことが出来ても、それは愛人に対しては同じように他人に表明出来ないという社会的法的規範とか不文律に対しても怒りの矛先を向ける(このことは後で詳述する)。
 つまりこの段では明かに中島は「悪について」でカントの言う根本悪について言及したこと等に見られる諸著作と同様完全に心情倫理的なのである。
 つまりこのコミュニケーションにおいて責任倫理的であろうとする立場を取る哲学者が、心情においては自らの内部に巣食う差別意識に対して敏感にならなければいけないという思想を持つ時、恐らく中島にとってはその他との対話を成立させるものは哲学を置いて他にはない、という考えがあるのだと私は思う。
 その部分では明らかに永井均と共通している。
 永井は前回に取り上げた「なぜ悪いことをしても<よい>のか」においてこう述べている。

 だから、もしいま、十三歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないのか、そもそもなぜ悪いことをしてはいけないのか」と本気で問われたなら、道徳的に正しい答えは「それについていっしょに哲学しよう」である。それ以外の答えはまやかしである。(60ページより)

 つまり永井は命題論的には他者と意思疎通し合う時理解が必ずずれることを前提していて、その意味では経験論的コミュニケーション懐疑論者であるが、しかし決してその命題論が彼自身において他者と語り合うことの不毛を態度として齎しているわけではない。それどころか積極的に哲学対話をここで呼びかけている。
 つまりこの部分にこそ私が本ブログで取り上げた二人の哲学者の職業としての自己責任と、一個人としての考え方の資質として共鳴し合う部分を発見するのである。
 しかしそういう風に形而上学的に、倫理的に共に語り合うという場を設定することを提唱する意識の前に我々には日本人である、という決定的な現実が横たわっている。つまりそれが中島に只時間論や意識論だけではない、もっと社会的位相から考察する著作へも向かわせる動機となっているのだろう。だからこそと言うか、その必然的展開であると言うべきか、「差別感情」において中島は日本人にとっての穢れという感情について文化論的に考察している(この穢れについては養老孟司が「死の壁」や「無思想の発見」などにおいて詳述しているし、古くは井沢元彦による「穢れと茶碗」といった名作もある。中島がこれらの著作のどれを読みどれを読んでいないかは定かではないが、少なくともこういった一連の言論界からの言及の数々が彼の思考と信念を刺激していったということは容易に想像出来る)。
 例えば中島は「差別感情」において第一章を文化論的前提として不快、嫌悪、軽蔑、恐怖という四つの位相から分析している。この中では特に後者二つ、つまり 3軽蔑 と4恐怖 が重要である。広範囲から部分的に重要箇所のみを抜粋してみよう。

「軽蔑」は嫌悪よりさらに価値意識の高いものである。嫌悪の場合は、まだ対等の感情であるが、軽蔑において視線は上から下へ向かう。まさに、見下す態度である。また嫌悪と違って、軽蔑とは他人を切り捨てる態度でもある。軽蔑しているものに対しては、もはやすべては解決済みなのであり、議論の余地はないのであり、いかなる証拠を突きつけられえても逆転は不可能なのである。これは信念であり、相手の劣等を信じようとする態度である。(80ページより)/(前略)軽蔑とは、「他人における意志がわれわれよりきわめて劣っていて、われわれに対しては善も悪もなしえないと判断して、その意志を軽視しようとすること」となる。(81ページより)/デカルトの定義は、他人における劣った意志に対する軽蔑に力点が置かれているが、それは道徳的に劣った意志に対する軽蔑と言い換えてもよい。まさにナチスが大衆の心を操作しえたのは、ユダヤ人における道徳的に劣った意志を誇大宣伝することによってであった。それは同時に(次節で扱うが)ユダヤ人に対する「恐怖」と結びついている。軽蔑の背後には恐怖がある。物質的に強力な、しかし道徳的には劣悪な民族が自分たちのすぐ傍にいて、虎視眈々と世界支配の機会を窺っている。いまのうちに何とかしなければ、全ドイツがユダヤ人の陰謀に呑み込まれてしまうであろう。しかし、彼らがいかに物質面で強力であろうと、道徳的に劣悪なのであるから「自分たちに対しては善も悪もなしえないと判断して、その意志を軽視」していいのだ。(改行)ここに重要なことは、(とくに強烈な)差別感情における軽蔑は恐怖に裏打ちされているのだが、相手(集団)を軽蔑するさまざまな理由の中核には「道徳的軽蔑」が位置するということである(これは後に「リスペクタビリティ」の問題として論じる)。(82ページより)
 
 この後中島は黒人に対する人種差別に関して欧米列強が道徳的に劣悪であると欧米人が決め付けることでアジア・アフリカ支配の理由として有効なものであるとするキリスト教布教や十字軍遠征の理由を位置づけ、更に続ける。

(前略)ここで、あらためて問うてみよう。なぜ欧米列強は他民族支配の理由の中心に道徳的理由を据えたのであろうか?鑑みるに、それが自分たちの行為が「正当である」最も強力な根拠になりえるからである。いかに未開民族でも未開だからといって彼らを殺戮しその土地から追い払うことは直ちに正当化されない。罪悪感は残るのである。しかし文明の光(啓蒙)を授けてやるという理由なら、正当性は確保されるのだ。だから、「解放、平等、寛容、自然権、および人間の尊厳の尊重といった民主的な諸原理を促進」する啓蒙主義と過酷なアジア・アフリカ支配と両立するのである。
 ここで、少なからぬ人(とくに差別撤廃論者)が混乱している事柄を指摘しておく必要がある。黒人は白人より、女性は男性より平均して知能指数が低いという結果が出たとしても、直ちには「黒人や女性を差別すべきだ」という結論を導くことはできない。前者は事実判断であり、後者は価値判断なのであるから。黒人は白人より、女性は男性より平均して知能指数が低いという事実を認めたとしても、この事実にまったく依存せずに「黒人や女性を差別すべきではない」と主張することもできる。
 これは表面的な検査結果であり、黒人や女性に対する偏見の産物である・・・・とムキになって反論する者は、かえって「知能指数の低い者は差別されて当然だ」という論理を前提している。そう反論する熱意にうちに、暗黙の差別意識が前提されている。
(中略)
(前略)「黒人は白人より、女性は男性より平均して知能指数が低い」という事実が「知能の低い者を差別すべきだ」という風潮を呼び起こしやすいがゆえに警告を発するというのならわかる。しかし_私の知る限り_こういう冷静な判断を示す人種差別廃止論者やウーマンリブ推進者はいない。まさに「繊細な精神」が要求されるところであろう。
(84~86ページより)

 ここでも中島は繊細という語彙を使用する。この繊細という語彙の意味するところが中島にとって読者に最も言いたいことであるように少なくとも論文全体の主旨からは読み取れる。しかしそこで恐らくこの論文の読者は二手に分かれることを恐らく中島自身も予想してそう書いている。例えば今挙げた引用箇所の最後に記述において知的障害者に対する差別意識を述べている下りなどがその顕著なものであろう。
 つまり知的障害者を差別してはいけない、という倫理査定が中島にはまずある。そしてそれは裏返せば知的障害者に対して少なくとも自分は障害者ではないと思っている人であるなら、少なからぬ違和感を抱くということを前提にしているということだ。
 
 そのことは後で詳述することとして、まず中島による語彙「繊細さ」について少し考えてみよう。
 最近出版された「やっぱり、人はわかりあえない」において思想家の小浜逸郎と往復書簡形式で中島が自分にとって哲学について考えていることを忌憚なく小浜に告げている部分からも読み取れるが、彼は端的に哲学を思想と分けている。それは「哲学の教科書」等でも既に書かれてきたことであるが、端的に中島は全ての人に哲学を勧めているわけではないのだ。あるいは全ての人が哲学という学問に適性を持っているとも思っていない。これが第一に中島哲学を理解する上で重要な事実である。このことは例えば「人生に生きる価値はない」でもはっきりと述べられている。
 この態度を小浜は中島の態度を哲学聖化主義として批判しているが、実際小浜の考える哲学と中島のそれが最初から食い違っている以上、この往復書簡が結局相互の理念と感覚の違いを示すだけで終わっているということは件の本を読んだ読者なら誰しも気づいていたことだろう。
 中島は更に別の著作において「人々は哲学に多くを求め過ぎる」と述べているが、彼にとって哲学とは自分自身において理解出来る範囲のことを自分の頭でうんうんと唸って考え、それを語り合うべきことであり、広く一般の人々にとって開放された学問ではない、という信念がまず第二に挙げられる。つまり中島自身が自分自身を神でも仏でもないちっぽけな実存者であると認識しているのだから、彼自身の感性にそぐわないことに自分自身感けることなど出来ないという意味では全ての大人が子供に対するような啓蒙的態度を、こと哲学を語り合う前では排除しているのだ。
 実はこの部分では永井均が考える哲学的態度と全く同じである。この二人の哲学者は色々な面において異なった感性であり、理念である。しかしこの部分では例えば今挙げた小浜逸郎や養老孟司、あるいは勝間和代、香山リカや茂木健一郎といった論客、あるいは思想家、知のオピニオンリーダーたち全員と一線を分かつ所のスタンスなのである。この事実は強調し過ぎてし過ぎるということなない。

 さて話を論文の方に戻そう。
 中島はある意味では通常なら忌避するような差別感情自体を解析するために敢えて命題論的に持ち出してきているが、実は今述べたことを理解すればよく論文の主旨を理解することが出来るのではないだろうか?
 つまり端的に中島はこの「差別感情」を実際に差別されている、と意識しているようなタイプの市民に向けてなど端から考慮に入れて書いてはいないのだ。またそういう風にどんなタイプの読者をも読んで納得させることが可能なようなタイプの本を書くということ自体が中島にとっては欺瞞以外の何物でもない、という信念があるのである。
 中島義道という著作家は全ての著作物に一貫して言えることとして、最初から読者の層を絞ってターゲットとしているのである。それは「カイン」のようなタイプの悩める青年層に向けて書いたエッセイであれ、専門的哲学的イデーを書いている「カントの時間論」などにおいても全く共通している。
 中島は妻となった女性と巡り合い息子も儲けているという事実においては、少なくとも彼が自らの生い立ちから語って自分自身の家庭にまで衝撃を与えた「孤独について」において書かれている幼少期の苦悩ということを除いて考えてみれば、恐らく一般社会人の中においてそれほど不幸な人間ではない。例えば「ウィーン愛憎」や「続・ウィーン愛憎」において示されている欧米人からの日本人への差別意識も、本当にそういった生活の渦中にいる人間であるならまず著作化することすら不可能であろう。このことは 第四章 二人の哲学者にとっての著作者としての性格 において詳述するので、触り程度にしておくが、端的に中島は他人から見た場合(だからこれは中島自身の立場に我々が立てない以上永井哲学的意味論からも理解不能なことを承知で敢えて言及すれば)「不幸論」などで人間の不幸について正面切って真摯に言及することが可能なくらいには恵まれている、とさえ言えるのだ。
 本当に不幸な人間なら自らの不幸についてなど直面することを避ける筈だからである。あるいは他者に対してならそういう人間は(それはタイプとしての人間ではなく例えば私自身の中に不幸であるという部分を発見した場合、それを他者に語るという風に置き換えてもよい)その不幸な部分をあまり見せないようにして、幸福そうに振舞うということが一般的傾向だとは言えないだろうか?
 あるいは例えば中島はある著作において自分の息子が何処に住んでいるかも知らないということを書いているのだが、それくらいのことははっきり言って決して珍しいことではない。この世の中には自分の息子や娘がいるということを知っていてさえも決して様々な事情から会えないまま生涯を終える人も大勢いる。
 いや、そういった一般論を一切除外して考えることに実は最大の意味がある。つまり重要なことは中島自身が幸福か不幸かということではないということだ。中島が「たまたま地上にぼくは生まれた」で自己について理不尽に成功している、と述べているが、つまりそういった自己に対する不当な幸運という事実自体が自分より優れている大勢の人々が不遇に生活していることを知っているが故に、その事実認識に対して自責の念を禁じえないのだ、と中島自身が考えていることの方により、本論で考えてみたいことの本質がある。

 それはこの論文の最終部に近いある箇所(第三章 差別感情と誠実性 3誠実性(1)中、198ページより)を読むと更に理解が深まる。少し長いがそのまま掲載しておこう。

 障害者に対する差別

 これまで、差別についてさまざまな考察を重ねてきたが、その独特の見えにくさは、差別が人間社会にとって価値ある部分と微妙に接していることである。このことは「誠実性」という価値において極限に達する。私は自分の感受性と信念に忠実でありたいと願うが、まさにこの欲求自体が差別感情と独特な親和性をもつのである。
 私が体験した具体例を挙げよう。
 成田空港でのこと。広大な空港を歩いていると、前方十メートルのところに、ちょっと気になる歩き方をしている白人の小柄な少年がいる。ふっと見ると両手の腕のところから直接数本の短い指が出ている、いわゆるサリドマイド児であった。それを認めた一瞬、私はそちらの方向に行くことを躊躇した。彼にはやがて追いつき追い越すことに抵抗を覚えた。そのときの自分の「何気なく」振舞うであろうしぐさに嫌悪感をもったのである。自然なかたちで「彼」に対することができない自分の小ささに苛立ちを覚え、私は一瞬の自分の狡さに嫌悪を覚えた。たとえ追い越したとしても、私は一瞬の「自責の念」を体験するとやがて忘れるだろう。忘れないまでも、そのことにひっかかりつつも「仕方ない」と呟くであろう。
 この場合、誠実を求める私にどんな選択肢があるのであろうか?私のそのままの感受性に忠実に、嫌悪感と不快感にわずかな戸惑いの籠もったまなざしで彼を見据えることが誠実なのか?それとも、あたかも知らない振りを装って急ぎ足で彼を追い越すことが誠実なのか?
 直感的に、どちらも「違う!」という叫び声が聞こえてくる。 
 とりわけ前者は、少なくとも私の感受性に忠実なのだから誠実であるかのように見える。その点、少なくとも後者より欺瞞性は少ないかのように見える。しかし、事態をどこまでも繊細に見ることが必要なのだ。
 あたかも気がつかなかったかのような振りをして彼を追い越す自分を「正しい」と信じている人は、限りなく欺瞞的であると思う。
 少なくとも、その自分の欺瞞性に気づくべきであると思う。この「べき」はどこから出てくるのか?障害者を差別すべきではないという私の(個人的)信念からである。しかも、私はそのことをすべての人に要求する。そうでない信念とは、一体何であろうか?
 だからといって、もちろん彼に捻じ曲がったまなざしを向けることが正しいわけではない。また、そのときの私のように、彼を目撃して怖気づきその場を避ける人が「正しい」わけではない。そのときの私のように、自分の狡さをいかに責めたてても、そのことによって私の狡さが消えるわけではない。
 ここで、もう一度よく考えなおしてみよう。私が_これは事実であるが_、ある種の障害者に対して不快感とも嫌悪感とも言えないどうしようもない違和感を抱いてしまう。そういう違和感を抱いた瞬間に、私はそういう感情を抱いている自分を激しく責める。そして相手の「過酷な人生」を評価しようとする。つまり、そういうふうにして、私は彼の人生を勝手に「過酷なもの」とみなし、それを尊敬しようと努力し始めるのだ。
 しかも、そういう自分の「嫌悪から尊敬への屈折」の狡さをも見通している。これには、さまざまな感情がまといついている。彼の人生を一概に「過酷な人生」と決めつけることはできないかもしれない、そう決めつけることこそが差別感情なのだ、だから過酷な人生を「尊敬する」という感情もじつは差別感情なのだ・・・・・という判断が脳髄でざわざわ音と立てている。
 実際にお前は彼を「尊敬している」のか、その尊厳は単なる哀れみではないか、という声も聞こえてくる。そうなら、お前は彼(女)に向かって「障害者として生きていて尊敬します」と言えるか?言えないなら、なぜ言えないのか?自分の中にすっきりしない定型的なラベルが貼って誤魔化し、その場を回避しようとする心の動きを察知しているからではないのか?
 普通、生き方において尊敬する人には近づきがたいものである。その人の話を聞き、その人を近くで感じていたいものである。だが、お前は彼に「尊敬」という言葉を個々にもち出した自分を恥じているではないか?そう語ったら、彼は微笑みつつも、全身で「それは嘘です」とはっきり拒否するであろうことを、お前は恐れているではないか?
 こういう言葉が私の脳裏に駆け巡り、私は多くの場合、行き詰まり「どうしていいのかわからない」と呟いて思考を停止するのだ。
 そういうときに、別の側面から問いが私に迫ってくる。はたして、私は本当に「障害者を差別してはならない」という信念を抱いているのであろうか?それを本当に抱いているなら、こんなブザマな態度はとらないであろう。こんな混乱に陥ることはないであろう。私は、ただ自分を守るために、そう信じ込もうとしているだけではないのか?障害者に冷たい視線を注ぐ自分に嫌悪感を覚えるから、「障害者を差別してはならない」という信念を抱いていると思い込もうとしているだけではないのか?
 もっと言えば、お前はじつは何も悩んでいないのではないか?一瞬、悩む振りをして、自分自身に免罪符を発行して、こうした事態に直面して悩み苦しむ自分は棄てたものではないと思い込みたいだけではないか?そういう複雑そうでいて、すべては自己防衛に基づくゲームを一心不乱に続けているだけではないのか?お前は、俺はダメだダメだと自分に言い聞かせながら、そういう自分は簡単に障害者を切り捨ててしまう多くの男女より高級な人間だと思っているのではないか?そう思って安心し、自分を慰めているのではないか?(198~202ページより)

 この文章はさながら教会で神父を前に懺悔するカトリック信者の趣きがある。
 端的にこの文章を実際にサリドマイドである人が読んだらどう思うだろうか?恐らくそういった立場の人はこのようなタイトルの本自体を購入して読むということなどないに違いない。あるいは敢えてある部分では障害を抱えている人の気持ちを本当の所はちっとも理解していない健常者の立場を知りたいと考えて買う人もいるかも知れない。
 しかし中島にとって重要なこととは、そういった人たちのことを慮って一切の自己真意を述べることを差し控えるという態度が、では実際に正しいことなのか、という問掛けを読者に共有させることを憚らないという誠実性に哲学の存在理由があるということであり、それこそが、中島が訴えていることではないだろうか?
 つまりサリドマイドの人を見た時に一瞬違和感を覚える多くの人たちに向けて何かを語るという機会をそういった実際の障害者の立場だけを慮って差し控えるという態度が持つ欺瞞性について語ることは許されないのか、という問掛けが中島にはあるのだ。
  
 中島は感性においてはエゴイズムを徹底化されたい、と望む一方、哲学的には自らの内部に潜む悪の正体を見据えて、その事実と真摯に共存していかねばならないと理念的にそう意志するわけだ。この事を中島が自らの悪に自覚的であり、それを理念において統制しようと欲するモラル論者、理性論者と解釈するか、そういったスタンスを利用してエッセイスト、作家として成功している文化人と解釈するかによって、解釈の仕方の違いに応じた評価内容は著しく変わってくることだろう。
 中島は少なくとも経済的、あるいは教養的レヴェルから言えば家庭は然程貧しくもなく、中流以上であり、自ら理不尽に成功していると幾分自虐的にも語る。そして自分より恵まれない立場の人たちを助けたいという気持ちが全くないことを負い目もなく「生きてるだけでなぜ悪い?」において対談相手である精神科医の香山リカに告白している。その部分が面白いので抜粋掲載してみよう。

 金銭感覚は人それぞれ

香山 2007年、大阪で三〇代の電気工事士が妻と四歳の二人の子供を殺してメールで「もう食べていけません」と送って、自分も飛び降り自殺した事件がありました。ああいう家庭を見ると胸が痛いじゃないですか。
中島 そうですね。でも反発されるのは承知のうえですが、新聞に政治家がわいろをもらったとか、横領したとか、資産を何億円も持っていると書かれた記事が載っていますが、私自身は全然怒りを感じないのです。
香山 そのお金は「自分が働いて納めている税金」ですよ。
中島 そもそも私は税金を払うことが嫌ではないのです。もちろん、たいして払っていませんが。確定申告は妻がやっていてくれて、私は妻に「必要経費でズルするな」と言うくらいです。国立大学に十二年もお世話になっているし、別に税金を払ってもいいのです。
香山 その税金が不正に使われるのは許せない気持ちではないですか。 
中島 それもないですね(笑)。
香山 2007年は年金問題で不正がたくさん問題になりましたけれど、このあたりはどうですか。
中島 この前、とうとう六〇歳を過ぎて、年金案内が来ていましたけれど、別にいらないのです。
香山 それでは、年金が「消えた年金」になってもいい?
中島 全然構わない。先ほどお話ししましたように、私の場合、周りの人がいろいろ私を援助したおかげで、結果として生き延びてきました。もともと私が浮浪者みたいな存在ですから、別に損をしてもいいと思っているのです。
香山 そこで、自分はともかく恵まれないほかの人を助けてあげたいと思いませんか。
中島 思いませんね(笑)自分は恵まれているから、それを今度は他人に還元するという発想もまったく私にはありません。(第三章 金持ちなんかにならなくていい! 中 103~105ページより)

 この中島の一見反社会的とも受け取れる発言は、しかしモラル論的には否定することが決して出来ないことに実は我々自身も気がつく。
 何故なら私自身ホームレスが気の毒だと思っていても、街角で見かけたら咄嗟に避けようとするだろうし、「うちに来て泊まれよ」などとも決して言えないし、第一彼らを救ってあげるだけの一切の力も私にはない。それは経済的にもそうだし精神的にもそうだということだ。にもかかわらず我々は常に口先だけは「気の毒だ」と言って憚る所もない、その偽善的事実に対して中島は徹底的に抗議しているとも言えるし、また我々はホームレスになっている人を見かけても恐らく何か自分の努力が足りなかったのであろう、とそう思うことの方が多いだろう。だから私自身この部分を読むと笑えてしまうのである。例えば「人生、しょせん気晴らし」において中島は 対談という気晴らし において対談相手であるお笑い芸人であるパックンに次のように述べている。

パックン 確かに日本人は世界一嘘つきというデータを見たことがあります。社交辞令を含めて、でしたが。
中島 カントは善意の嘘がいちばんいけない、いちばん自分の精神が腐ると言っています。
パックン とすると、先生ご自身の人生の中で哲学を追究することは難しいのではありませんか?
中島 ええ。嘘をつくのはイヤですが、結局、人間社会から離れることになります。私は十年前から冠婚葬祭の類はいっさい行っていません。「素晴らしい結婚式ですね」などと嘘をつくのがイヤですから。
パックン はははっ!
中島 年賀状も出しません。「ご家族のご多幸をお祈りします」など祈っていないのに書きたくはないのです。
パックン ええっ!ちょっとくらいは祈ればいいじゃないですか!
中島 祈りません。ここで譲歩したら哲学ではなくなりますから。
パックン なるほど。知を渇望する、つまり哲学を追究していくと行動も変化していくわけですね・・・・・・・。
中島 だから、他の人の家に招待されるのもイヤです。「まずい料理ですね」「バカな子どもですね」とは言いたくないですから。
パックン だったら、もう少し趣味のいい人と付き合えばいいのでは?
中島 ですが、目につくのは悪いところばかりなのです。(「対談」という気晴らし 中196~197ページより)

 ところで中島の持つ哲学者としての志向性や資質は別としても少なくとも神社へのお参り一般に対してさえ、建物への物心崇拝に繋がるとして不合理であるとして、一切拒否するような彼の生活態度及び行動決定というスタンスは戦う哲学者の異名に相応しいとも思われる。徹底した無神論的立場表明性は、かの生物学者リチャード・ドーキンス、そして彼の僚友である哲学者にして認知科学者であるダニエル・デネットと全く符号する箇所を我々は中島に発見することが出来る。つまりこの事実が私たちに示唆することとは、端的に哲学者は一体何処まで自分自身が生まれ育った民族共同体とか国家とか文化とか習慣へと拮抗してゆくべきかという事に纏わる倫理査定という命題である。このことを次回は問掛けていくために中島のこのテクストを利用しようと思う。
 つまり自ら信条とする哲学理念の実践家である中島にとって心にもない世辞などを言ったり信じていないことをしたりする(初詣とか年賀状を出す事等も含む)のは哲学者としても一個人としても許し難い事なのである。その事は「差別感情」中ある箇所で示されている論述に対する彼の正当性としての信念をより裏付ける。次回は最後の引用よりも大分前の第一章 他人に対する否定的感情 中 恐怖に書かれているその箇所の引用論述内容へと再び戻ってその検討から入っていくこととしよう。(つづく)

1 comment:

  1. あなたに神を愛しています。聖書を読んでください。

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