私とは何かは哲学永遠不変のテーマだが、日本人の二人の哲学者がこの命題を全く違った形で示している。中島義道氏と永井均氏は共に私がある時期出会った哲学者である。出会うとは僭越だが、出会いは師弟という形式的レヴェルを遥かに超え得る。何故他にも大勢哲学者はいるのに、この二人に私が啓発されたか?それをこのブログで究明しつつ来場者と共に私や私であること、私の感性について考えたい。このブログは二人の哲学者に共鳴する全ての人たちによる創造の場である。

Thursday, December 10, 2009

第一章 道徳とは何か、どのように位置づけたらよいのか①

 二千年の間過去とは何か、未来とは何か、存在とはと問うてきた哲学者たちの営みも、実際上、ひょっとしたらいかなる哲学的権威のない、あるいは哲学という学問の存在そのものに対する知識の全く欠如した人(そういう人は過去にも大勢いたし、現在も、これからも存在し続けるだろうが)の中にひょっとしたら哲学者たちがうんうん唸って考え解決していない命題を難なくすらりと解き明かすような人が紛れ込んでいると私は考えている。そういう意味では哲学の前ではいかなる権威も何の足しにはならない。
 そういう観点から言えば、哲学で学位を取得し、生活上プロの学者として社会的地位を築き上げている人だけが哲学的に優れているのではなく、大勢の優秀な哲学的頭脳が未だ発掘されていないということを、出版界に名を届かせてきているのにこの二人は、そのことを重々承知しているという意味では極めて明確な共通性を持っていると言えるだろう。
 しかしこの二人は共に相手に対して一定の敬意を抱いていると同時に痛烈な皮肉とも受け取れるメッセージを送っている。まずそのことを巡る二人の考え方を中心に論を進めていくこととしよう。
 精神分析では私が知る限りでは極めて自己愛ということと、その現代的諸問題における死の観念をはじめとする哲学的探求の現代人の欠如が、その漠然とした安心を得たいという現代人の生理的欲求を満たすために最も有用な概念である全能感において奇妙に協力し合っていると考えられているように思われる。
 つまり自分だけは死なないのではないか、という漠然とした安心量として、哲学することを忌避する態度こそ現代人の自己愛であり、その現代人の真実への透徹した眼差しを逃避する感情を支えているものこそ現代資本主義社会のサーヴィス接客態度を企業が利潤追求のために全従業員に義務づけ、そのサーヴィスを享受することに快楽を見出しているという現代社会生活への洞察こそ故小此木啓吾氏の精神分析理論であった。全能感とは探求することのしんどさを一時忘れさせるごまかしの典型的な心理である。
 しかし哲学者という人種はそういうごまかし自体が許せない。と言うよりそういう態度が許せないタイプの人を哲学的人間と呼ぶのである。だからそういうタイプの人が仮に職業的な意味で哲学者ではない場合でも、その人は哲学することに赴くタイプであるとは言えるだろう。それはある意味では永井均氏の観点でもある。(「子どものための哲学」)
 もう一人中島義道氏は永井氏よりも多少先輩の世代の哲学者であるが、「悪について」ではカントの倫理論を基軸に悪という概念に肉迫している。氏は次のように道徳的センスというものを定義づけている。
 「道徳的センスとは、常に善いことをしようと身構えているセンスではない。自己批判に余念がなく、たえず自分の行為を点検し後悔するセンスでもない。
 そうではないのだ。それは善とは何か、悪とは何かという問いを割り切ろうとしないセンスであり、そのことに悩むセンスである。ラスコーリニコフのように。」(「悪について」中16ページ)
 この氏の考えは一部永井氏と共通するものの、一部では極めて対立するが、そのことについて深く立ち入る前に、私自身のことについて触れておきたい。
 私は本来道徳そのものには関心を持っているが、自分自身を客観的に判断することとはある意味では不可能なことなのだが、それでも敢えてその暴挙を犯すとすれば、私は少なくとも道徳的人間でありたいとは願っていないので、従って外部から判断したとしたら、道徳的人間であるとも思われないだろうし、事実思われていないだろうと思う。
 何故なら私はまず人が死ねばいいと感じる時はある。正直に言えば嫌いな人間も山ほどいるし、ただそういう人間と出来る限り接触しないような生活を全うしたいと願っているだけであり、法を遵守して社会人として逸脱したくはない、と考えるのだが、その理由は法的に罰せられることが嫌だからである。それ以上に私が例えば殺人を犯すことを私に防止させている確固たる理由は実は私は見出せないでいる、ということは確かである。
 私は心底嫌いな人間の前ではその人間が死ねばよいと思うくらいには偽善的にはなりたくないということだけは言える。しかし嫌いなタイプではない人間においても嫌いでたまらない部分というものは当然ある。しかし本論はそのことについて触れる場ではない。
 要するに嫌いな人間に接してその嫌いでどうしようもない奴が死ねばよいとい気持ちになるような状況を避けたいと願うだけの人間であるとは言えるし、その事実をもって私を不届きであると考える人がいたとしても、それをわたしが実行しない限りで、私を誰かが責める権利もないのではないか、とだけは考えていると言える。(正直に告白すると、私は法的に許されれば殺したいとさえ思える人間さえ何人かいる。その意味では中島氏の「悪について」の<はじめに>の下に引用するⅳページの言説は私には当て嵌まらない。)
 だからこそ私は私自身を少なくとも中島氏の考えておられるような意味で道徳的人間でありたいとは決して思わないし、そもそもそういう問題で深刻に悩みたくはないという気持ちの方が強い。その意味ではリチャード・ドーキンスが「利己的遺伝子」で示したような意味でのモラル云々ではなく、生物学的に社会から疎外されない程度の振る舞いをすることを無意識に望むタイプの人間であるとも言える。
 しかし自分自身の行動原理としてモラリスティックでありたいと願わないということと、モラルとは何なのかということと、どういうモラルが人間に必要と考えられているかとか、あるいは理念として人間にはこういうモラルが必要なのではないかという考えとは別個の問題である、と少なくとも私はそう思う。
 つまり行動原理としての思想が自分に適用されないということは無責任であるが、同時にそのように行動原理を客観的に正しいと思えることと、主観的にこうするということが完璧に一致している人間がいたら、私は寧ろ積極的にお目にかかって話しを伺いたい(それはそういう人間に対して敬意を抱いているということでもない)。
 つまり私が考える人間の本性とは、例えば誰かからの介護を必要とするようなタイプの生きてゆくことそのものに対して必死であるような人以外の通常の社会人で、一定の知性と知恵を持っている人で権力欲の皆無な人間など果たしているのだろうかという疑問を根幹としている。
 その意味では善良であると心得ているようなタイプの市民の持つ欺瞞性を私は中島氏同様似非善良と考えている。
 中島氏は「悪について」の<はじめに>において次のように語っている。
 「哲学者たちは、これまで悪についてさまざまな考察をめぐらしてきた。西洋哲学に限れば、それは主に「弁神論」というかたちで論じられてきた。完全な善としての神がこの世を創ったのに、なぜこの世にはこれほどまでに悪がはびこっているのか。このまっとうな問いに対して、アウグスティヌス、スピノザ、ライプニッツ、シェリングなどの代表選手をはじめ、哲学者たちは精魂傾けて答えを与えようとした。だが、私個人は、こうした諸回答にまったく興味を覚えない。そもそもその「問い」そのものが私の中にないからである。
 といって、私は善悪に関する懐疑論の肩をもつわけではない。私は、むしろ現代日本における善悪の観念は至極まともだと思う。私は「なぜ人を殺してはいけないか?」というひところはやった問いを、自分のうちに見いだすことができない。私にとって、それは全身を打ち砕く問いではないからである。憎い他人はいくらでもいるが、私はその誰一人として殺したくも、ナイフで刺したくも、苦しめたくもない。誰の家にも放火したくなく、誰を強姦したくもなく、誰からも金を巻き上げたくない。だが、私は自分のうちに膨大な悪が渦巻いているのを知っているのだ。
 それは、こういう犯罪行為レヴェルでの悪ではなく、まさにそこに陥らないようにうまく生きていることに対する負い目である。成功することを求め、そのわずかな成果を喜ぶことに対する負い目である。他人より自分のほうが優れていることを一瞬自覚してしまうことに対する負い目である。苦しんで生きている人がごまんといるのに、ぬくぬくと生きていることに対する負い目である。いちおう五体満足で、健康で、定職が与えられていることに対する負い目である。」
 私は最後の一節と先述した誰も殺したくはないということ以外は中島氏と共通する。
 しかし興味深いことに永井均氏はこの考えとは全く異なった様相で論理を展開する。(つづく)

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