私とは何かは哲学永遠不変のテーマだが、日本人の二人の哲学者がこの命題を全く違った形で示している。中島義道氏と永井均氏は共に私がある時期出会った哲学者である。出会うとは僭越だが、出会いは師弟という形式的レヴェルを遥かに超え得る。何故他にも大勢哲学者はいるのに、この二人に私が啓発されたか?それをこのブログで究明しつつ来場者と共に私や私であること、私の感性について考えたい。このブログは二人の哲学者に共鳴する全ての人たちによる創造の場である。

Monday, December 14, 2009

第一章 道徳とは何か、どのように位置づけたらよいのか②

<今回から一切の敬称略>
 私は前回「しかし興味深いことに永井均氏はこの考えとは全く異なった様相で論理を展開する。」という文で締め括った。今回はそのことを明示しようと思う。
 結論から言えば中島は自我論者であり、それは彼固有の道徳論と一致する地点で考えられているのであり、それは哲学者としてのライトモティーフ上そうなのであり、彼は率直に言って倫理学者ではない。
 それに対して永井は自身哲学者としての道徳論も時間論も持ってはいるが、その論理命題は完全に倫理学者のものなのである。
 実はこの第一章の問題は取っ掛かりとして適切であるとは言え、一番根幹に位置する難しい問いなのである。しかしまず基本としてこの根幹の問題について触れずにいたとしたら、以後一切のこのブログにおける目的が曖昧となっていってしまうので、結論を私は最初に述べることにしたのだ。
 何故そう言えるかと言うと、一つには中島自身が自我論者であることを、永井自身が倫理学者であると名乗っていることが第一であると同時に、彼らの全ての論文、エッセイに示されている論理命題がそれを志向していることが読み取れるからである。そこでこのブログでは永井の倫理思想を最もよく示していると思われる「翔太と猫のインサイトの夏休み」と「倫理とは何か猫のアインジヒトの挑戦」を中心に、引き続いて中島の自我論思想を最もよく示していると思われる「哲学者のいない国」における<差別感情と「好き・嫌い」>そして「人生、しょせん気晴らし」における<若者にきれいごとを語るなかれ>、あるいは<「統覚」と「私」の間>を中心に個々のケースを詳細に分析していってみよう。
 しかしかなり膨大な資料から論じなければならないので、第一章では永井の「翔太と猫のインサイトの夏休み」の前半から示されたことと中島の短いエッセイから対比させ、一旦そこで区切り、後日「翔太と猫<以降省略してそう呼ぶ>」後半引用部分からと、やはり中島氏の幾つかの論述との対比を第二章として分けて、その双方を「倫理とは何か猫のアインジヒトの挑戦」からもその都度抜き出して考えてみようと思う。
 そして更に結論を裏付ける如くその論者としての性格を端的に示すものとして永井の論の骨子は、中島の考える哲学における道徳論における前回の「悪について」の中の「私は「なぜ人を殺してはいけないか?」というひところはやった問いを、自分のうちに見いだすことができない。」という部分が最も異なるとも最初に言っておこう。何故なら永井はそのことに端的に拘っているからである(そのことは第六章 永井均の時間論と幸福論と中島の考え において粒さに見ていこうと思う)。
 逆に中島の立場から言えば、つまりこの部分で中島は論者として主観的な反道徳主義に対する対峙姿勢を鮮明にしているのである。中島のこの種の態度は積極的に自己退却的である。つまりだからこそ彼は道徳論者であり自我論者であるのに対し、永井氏はそうではなく倫理学者である、ということなのである。それはこの二人の幾つかの論述が持つ性格を分析してみれば理解出来ることである。

まず永井は「翔太と猫のインサイトの夏休み」<第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいと言える根拠はあるか>において翔太の立場から自分が見た変な夢をきっかけに自分の考えがよく分からなくなっていったことを次のような比喩を利用して説明しているが、これは後でもずっと関係してくる。次のような文である。

たとえば、交番で道を聞いたとき、お巡りさんに「日が沈むまで待てば、きみはどこへでも行けことができるんだから、とにかくあせりは禁物だぞ」なんて言われたら、言葉の意味はわかるけど、何を言われているかさっぱりわからないだろ?すべてがそんな感じなんだよ。結局、何を聞いても、みんなが何を言おうとしているのかが、どうしてもつかめなくなっちゃったんだ。(ちくま学芸文庫、143ページより)

ここで永井は恐らく彼自身が見たのであろうか、その夢の内容から現実自体が極めて不可思議に思えるようになっていったことをこの言葉で示している。この考えはデカルトによって「省察」において示されている有名な現実と夢の差があるのか、という哲学命題からのものである(中島も夢と現実の違いについて述べているが、それは永井とは全く様相の違う扱いとなっている。そのことは次々章で示す)。
 
「(前略)翔太はものごとの善悪には基準があると思う?」
「そりゃあ、あるんじゃないかなあ。だってさ、もしなかったら、何でも、その人が善いと思うことが、善いことになっちゃうじゃん?」
「生命原理の話でね、よくこういう例が使われるんだけれど、どう思う?重病人が四人いてね、その病気の特効薬が一人分しかないんだ。一人目は、医療ミスによってこの病気にかかった気の毒な中年女性。二人目は世界にただ一人といわれる高度な医療技術を持った医師で、今後世の中に最も貢献しそうな人物。三人目は金持ちで、この薬のために最も高い金が出せる大実業家。四人目は、何十人もの命を奪って、しかも反省の情も見せていない極悪人。翔太、きみに決定権があったら、どうする?」
「うーん、むずかしけれど、三人目や四人目ってことはないから、まあ、一人目か二人目か、どっちかだろうなあ。」
「どうして?四人目はともかく、三人目の金持ちが、だってだけで候補からはずされちゃうのは、ひどくない?それにね、ほかにもたくさんの選択肢があるんだよ。たとえばね、効果がなくてもいいから平等に分けるとか、くじ引きにするって可能性があるね?だって、命の重さは極悪人だって変わらないんだから、公正さってことを考えれば、この二つがいいとも言えるだろ?」
「でも平等に分けて、ぜんぜん効かなかったら何の意味もないし、くじ引きで悪い奴に当たっちゃうのもしゃくだし・・・・・・」
「その二つの場合に対立している原理はね、誰であっても、とにかく一人でも生き残る方が、全員死んじゃうよりはましだと考えるか、そういう結果のことよりも、とにかく公平さや平等を重視するかってことだね。初めの方を『功利原理』って言うんだけどさ、そう考えるとね、きみが最初に言った、気の毒な中年女性か、有益な医師か、っていう対立の背後にも、やっぱり、この二つの原理の対立があるんだよ。気の毒な中年女性を選ぶとすればね、それは過去に気の毒なことが、つまり不当な害悪が存在するからで、だからぼくらはいまそれを埋め合わせるべきなんだ。眼は過去に向けられているね。もし過去をご破算にして未来だけを見るなら、この女性が特に選ばれるべき理由は何もないさ。未来だけを問題にするなら、むしろこれから世の中のお役にたちそうな医師の方を選ぶだろうね。正義原理の特徴の一つは過去志向ってことでね、功利原理の特徴の一つは、未来志向ってことなんだよ。きみはどっちに共感を感じる?」
「うーん、なんていうか、ぼくには、正義原理の方が絶対で、なんかちょっと高貴な感じがするんだけど・・・・・。でもね、ぼくね、どちらの原理も満たさないんじゃないかと思うけど、もっといい解決策を思いついたんだよ。うふふふ。駄目かなあ?」
「なんだい、言ってみろよ。」
「それはね、特効薬があることを隠し通す、っていうんだけど、駄目かなあ?」
「なんで隠すのさ?」
「だってさ、そんなのがあるってわかると、どっちみち、不平等なことになって、みんなを苦しめるだけだからだよ。」(ブログ管理者注、私がもしこの件の決裁者なら黙っていて自分で一人目か二人目に決めるかも知れない)
「それなら平等に分けたら?」
「それでもいいけどさ、その場合には効かないかもしれないってことは秘密にしとかなければだめだよ」
「うーん、なるほどな。それは、どちらの原理も満たさないんじゃなくて、ある意味ではどちらも満たしているかもしれないね。翔太、意外に君は倫理的センスもあるんだね?」(144から147ページより)

 まあ、今回はこれくらいにしておこう。再びこの続きは 第六章 永井均の時間論と幸福論と中島の考え で大きく取り上げる。
 しかし、実際このような永井の思考実験は決して中島には出来ないだろう(彼なら全てを誰かに委ねて諦める時のことを思考実験するかも知れない。そこに彼の明るいニヒリズムの志向性がある)。何故ならそれは中島が哲学を学ぶ動機がまるで永井とは異なっているからである(そのことは第三章 中島義道の哲学的動機と永井(中島義道の不幸道) において詳述する)。そしてその証拠に中島の「悪について」で詳述されているカントの<根本悪>から考えれば永井のような論理を持ってくることは不可能であろう。何故なら中島はこの部分では明らかに自己の指針としているカントの根本悪撲滅論者だからである。それは中島が自分の教えていた電気通信大学でのゼミ生たちに送ったエールの文章を読んでも分かることである。彼は「どうか自殺だけはしないでほしい」と自分の生徒たちに呼びかけているのである。それだけではない。中島は「哲学の教科書」において殺人を犯した犯人にまでその犯人の反社会性に対する理解、つまり一歩間違えばその犯人の立場に自分たちがなっていたかも知れないという可能性に対する考えを表明し、犯人に異常性を感じ取る同僚に対して怒りさえ示しているのである。この下りは少なくとも私のようなタイプの人間から見れば神父か牧師、あるいは僧侶のそれに近いと思えるからである。
 一方その種の犯罪者への共感など永井には微塵もない。
 そしてだからこそ中島が道徳論者であり自我論者であり、逆に永井が倫理学者足り得るのである。(つづく)

4 comments:

  1. こんばんは、slide100です。

    永井氏の道徳論はよく読んでいます。彼の道徳論は、道徳(現象)を構造的に捉える試みに思えます。ある問題に対して、道徳的にどのような立場がありどのような対立があるのか?そしてその対立は何に起因するのか?そういう枠組みを記述していこうということでしょう。そうする中で、何が語りえて、何が語りえないのか?を、あぶり出していくとでも言うんですかね。

    私は他人の道徳的趣味なんて、ある意味どうでも良いですから、中島氏の道徳論はくどく感じますね。道徳論に限らず彼のエッセイは私にはくどい。ま、これは彼のエッセーだけ読んでの印象ですので、河口さんのブログで勉強させていただければと思います。

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  2.  まさに私の言わんとしたいことをSlide100さんが仰って頂いた気もしますね。でもまあ、その中島氏のくどさには彼固有の人生の挫折が読み取れるので、時々読むんですよね。
     永井均氏の方がずっと私にも冷めていて、その冷厳さにどこか安堵と癒しを感じさせる。それは凄い人間的力量です。
     要するに永井は倫理構造分析家であり、且つ論理命題的因果遡及主義者です。それは論理学的にも倫理学的にも形而上学的にも理に敵った態度ですね。ですから逆に中島氏のように多く執筆出来ない。そのストイックさと冷静さを私は尊敬しますね。

     でもまあ中島氏の魅力は自己破壊的な感性のエゴイズムと、執拗なまでの自己感性への拘りに恐らく誰も真剣に自分にはつきあってはくれないだろうという諦念自体が齎す読者共感試験型の執筆姿勢ですから、ゴダールの「勝手にしやがれ」でベルモンドが演じたニヒリスティックな主人公の告白のような感じがして、時として発作的に読みたくなることもありますね。それは哲学としてと言うより、寧ろ固有の文学としてですね。

     でも永井倫理学にも実はかなり辛辣な文明批評性が介在しています。そこら辺を今後も付き合っていきたいと考えているのです。
     そして彼の凄さを理解する意味でも中島氏との対比という手法が必要なのです。

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  3. >中島氏のくどさには彼固有の人生の挫折が読み取れる

    このくどさが好きか嫌いかで中島氏の評価は分かれるんでしょうね。道徳的問題について何か書くとしたら、どれくらいの水準で論じるのかはともかく(わたしにとってはここが重要なのですが)、何らかの道徳的な立場から記述せざるをえない。だから、永井氏に比べて中島氏の道徳論がレベルが低いと思うわけではないですよ。中島氏は、永井氏が言う「ニーチェの水準」以上で道徳論を展開しているわけで、そういう意味ではレベルの高い話をされているんだと思います。

    永井氏については、河口さんもおっしゃるように、自分の道徳的趣味の痕跡をできるだけ消そうとしてますよね。道徳的趣味を語ることに、彼は何か矛盾したものを感じるんでしょうね。その辺は、ウィトゲンシュタインの影響が強いのかもしれないし、単にアナーカーなだけかもしれない。

    ただ、道徳現象を構造的に捉えるにしても、それを記述する以上、永井の道徳的趣味の痕跡を完全に消し去ることはできない。彼は『子どものための哲学対話』のなかで「ネアカ/ネクラ」について論じていますけど、こういうところに彼の道徳的趣味がでているのかもしれないですね。ま、それは私は道徳的に善い人間より、一緒にいて気持ちの良い人間と付き合いたいし、それは何かしら訓練を受けてそうなるというものでもないというレベルのことかもしれないですが。

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  4. うん、よく分かりますね。私としては本ブログにおいて中島氏が自分をアナーキーぶっている割には寧ろモラル良心追随的であり、逆に永井氏はソフトに全てを仕舞い込んでいる割にはかなりアナーキーだという部分を抉り出したい。その為に精神分析、宗教、脳科学なども引き合いに出してこれからもこのブログを続行させていきたいと思っているんです。
    それは哲学のもう一つの命題である「振舞う」ことと「本意」ということの乖離とダンディズムと無意識の表出ということと真の善良さとは何かということ、そしてそれが本当に必要なのか(私自身は社会正義等馬の糞くらいに思っている所があり、だからこそ実際に誰かと相対している時には「そうではない振り」をすることもあるし、その振りを容認し合うという所にこそ社会性というものの必要性も最低限(あくまで最低限ですが)要求される、と考えます)を命題化したい。そこら辺は今後の本ブログでの記述を見守って下さると有り難いですね。

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