私とは何かは哲学永遠不変のテーマだが、日本人の二人の哲学者がこの命題を全く違った形で示している。中島義道氏と永井均氏は共に私がある時期出会った哲学者である。出会うとは僭越だが、出会いは師弟という形式的レヴェルを遥かに超え得る。何故他にも大勢哲学者はいるのに、この二人に私が啓発されたか?それをこのブログで究明しつつ来場者と共に私や私であること、私の感性について考えたい。このブログは二人の哲学者に共鳴する全ての人たちによる創造の場である。

Sunday, December 20, 2009

第一章 道徳とは何か、どのように位置づけたらよいのか④

 知覚(も恐らく意識も)一定程度の完全言語習得と共に発生すると考える中島の時間論的論理命題と永井のそれとでは画然とした開きが出て来るのは当然であろう。
 知覚意識の萌芽を完全成人の意識以前に遡らせるからこそ永井は私意識の獲得と期を一にする私の他者化、意思疎通における<私>の滅却、あるいはウィトゲンシュタインの私的言語の無化が論理至上命題になるのだ。
 これに対し中島はあくまで理解されるものとして言語という媒介=武器を糧に論を進めるので意味論へと向かうことなく、あくまで社会正義論へと向かう(例えばその顕著な例は「醜い日本の私」や「差別感情の哲学」)。
 しばしば社会学を批判する中島の本意とは全ての個が私という立場(を取らざるを得ない)が被る運命を他者へ伝達するものなのである故、伝えるべき内容ではなく形式を問うそのスタンスが許せないのである。
 しかしその部分でも永井はもっと冷めている。そして私は永井のこの態度に冷厳な哲学者を読み取るのである。
 例えば彼の言語習得に纏わる私意識の獲得が<私>を滅却して生において固有の一大転換を来たして意思疎通へと至る道筋を「翔太と猫」において次のように述べている。少し長いので内容毎に少しずつ引用しその都度解説してみよう。(第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいと言える根拠はあるか 中 2住んでる世界が違う? ちくま学芸文庫版から168~174ページより)

「よく『あいつらとは住んでる世界が違う』とか言うけどさ、価値とか倫理とかの話に限らなくてもいいだけど、ものの見方とか考え方がぜんぜん違ってて、住んでる世界まで違ってきちゃうようなことって、ほんとうにあるのかな?あったらどうなるんだろう、って思うんだけど、さっきのインサイトの話だと、ぼくたちはそういう他者の存在にはたえられないから、根本は同じなんだってことにしちゃんだよね?そうだとすると、ぼくにはやっぱり、ほんとうはぜんぜん違うのに、強引に同じ土俵に乗せちゃう、みたいな変な感じがするんだよ。」
「きのう、『赤』とか『痛み』っていう言葉の意味を習得しつつある子どもには、赤が青く見えるとか、痛みがかゆく感じられるとか主張する権利がないって言ったのか、覚えてる?意味が固定された後ではじめて、事実に関する極端な主張ができるようになるから、意味を学びつつある段階ではじめて、誰でも凡人でなくちゃならないって話だったんだけど。」
「覚えてるけど、どういう関係があるの?」
「もしね、子どものころから、ゴミや糞尿をきれいだと信じて、花や夕焼けを汚いと信じてる人がいたとしたら、その人は『きれい』とか『汚い』とかって言葉の意味が学べると思う?ぼくらはね、言葉の意味を実例を通じて学ぶんだから、最初からみんなと判断が一致していないと、そもそも意味を学ぶことができないんだよ。つまりね、感じていることや思っていることが同じだって前提のもとで、はじめて意味を教えたり学んだりってことが可能になるんだよ。」

(ここで永井はまず哲学で言うところの現象的な感じ、痛みとかクオリアとか美的感性について一致していているということが言葉を覚える段階における前提となっていることについて述べている。更に)

「どういう関係があるかのか、まだわからないなあ。」
「じゃあね、もしね、ここに、異邦人でも外国人でもなんでもいいんだけれど、どうやら言葉を話しているようんなんだけど、何を言っているか意味がさっぱりわからない奴がいたとするよ。そいつの言っていることを推測していくにはどうしたらいいと思う?」
「ぜんぜん知らない言葉じゃ、推測のしようがないなあ。」
「きみがいま、フランス語を少しも知らずに、いきなりフランスに行ったとしても、きみは少しずつフランス語がわかるようになっていくだろ?そりゃ、いったいどうしてだ?」
「なんとなくわかることがあるからだろうね。自分を指して何か言ったら、自己紹介しているんだろうとか、そういったような・・・・・」
「でも、なぜ自己紹介なんてするんだい?」
「要するにね、相手がこちらの予想がつくようなことをしてくれなけりゃ、言葉は永遠に学べないんだよ。そいつらの言ってることの意味がわかるようになっていくためにはね、そいつらがまともでありふれたやつらでなくちゃならないんだ。しかも、こっちの基準でだ。そうじゃないとしたら、そいつらの言ってることは、どこからも予想がつかないから、そいつらの言葉の意味は、永遠にわかるようにならないのさ。」
「なるほど。言われてみれば、たしかにそうだね。」
「正しいこととまちがったことって観点から言えばね、そいつらはほとんどすべて正しいことを言っているって前提しなくちゃ駄目なんだよ。もちろん、どんな人だっていつも真理を語るわけではないよ。でも、相手がこっちの観点から見てたいていは真理を語ってるって前提することが、相手の言ってることの意味が理解できるための前提なんだよ。両方が同じ言葉を、たとえば日本語をしゃべってる場合だってそうだよ。相手がこっちの観点から見て何か正しいこと、理のあることを言ってるって前提しないと、相手の言ってることはわかるようにならないんだ。むずかしい哲学の本を読むときなんか、みんなそうやって読むんだよ。そうやって意味の理解が成立した後ではじめて、考えの違いとか、始めの誤解とかがわかってくるのさ。」
「お坊さんがお経を勉強するときに似ているね」
「似てるけど、少し違うんだ。仏教徒にとってのお経とかキリスト教徒にとっての聖書はね、どこまでもまちがったことは書かれていないものとして読まれるんだよ。哲学徒にとっての哲学書はね、言われていることの意味が自分にとってよくわかるようになるまで、まちがったことは書かれていないものとして読まれるんだ。でも、いったんは聖典のように読まれる必要があるって点では似てるな。それと、どっちの場合も、始めのうちは自分を移入して読むしかないって点でもね。」

(ここでは極めて重要な幾つかのことが述べられている。まず「相手がこちらの予想がつくようなことをしてくれなけりゃ、言葉は永遠に学べない」と「そいつらの言ってることの意味がわかるようになっていくためにはこっちの基準でそいつらがまともでありふれたやつらでなくちゃならない」という真理である。これは極めて重要なことである。もしこの二つがなければ言語行為、言語活動の全てが履行出来ない。その二つの前提の下に我々は言語行為に突入し、「相手がこっちの観点から見てたいていは真理を語ってるって前提すること」において対話を成立させるわけだ。これがパラメーターと呼ぶもので、数学では媒介変数とか情報工学では引数(ひきすう)確率論では母数などと呼ぶ重要な考えである。尤も私もその辺の専門家ではないので、酒井邦嘉著「言語の脳科学 脳はどのようにことばを生みだすか」(中公新書)において言語のパラメーターセッティングについて次のように述べられている。「実際にわれわれが話す言語が多種多様に見えるのは普遍文法のパラメーターに自由度があるためである。言語獲得とは、生得的に持っている言語の「原理(principle)」に基づきながら、母語に合わせてパラメーターを固定していく過程(「パラメーター・セッティング」と言う)と見なせる。例えば日本語では、lとrの音の区別するというパラメーターは必要ないが、英語では必要である。言語が生得的・本能的・普遍的であるならば、言語は基本的に決定論で決まるということになる。原理の部分は遺伝的に脳の神経回路網として決定されており、残りのパラメーターの部分は環境によって決定される。」)
 しかしその後の宗教に関する記述に関してはそのままその通りであると受け取れない部分が残る。その部分の考察から次回は始めることとしよう。(つづく)

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